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蛙は風になる (小説)


 幸福というものはたわいなくっていいものだ
 ――草野心平


 暮れ方に、山の音。
 蛙はうすめをひらき、風にたなびく水田をうつし、
「……おれは風かもしれない。ちょっと、周りを揺すって、それでおしまい……。なあんの意味もない。そうさ、そうさ、おれは風だ。ああ、おれは風なんだ」
 ふわあっと、蛙は大きな口をあけました。緑いろの顔に、青いろの隈。すいみん不足でした。きのう、月にみとれていたのです。蛙は涙をしぼりながら、目をつむりました。蛙がウトウトしているうち、影の傘が降ってきます。影の傘は、ひろくぼやけたものから、せまいくっきりしたものになり、
「つかまえた!」
 蛙はとびあがりました。なんという熱い屋根だろう! 蛙は悲鳴をあげました。三本のすきまから、夕陽がおちています。あろうことか、女の指だ! 蛙は人さし指から小指まで四本指にふれながら、なんとなく女をさとりました。蛙は指のすきに目をあてます。
「……さようなら、山。おれは風になろう。一切合切、どうとでもなるさ。風のように、生きてやるさ」
 蛙はおとなしく寝そべり、女に運ばれていきます。


       〇


 蛙は水槽におちます。
 ほかほかの腐葉土が、蛙をむかえます。
 蛙は、水槽をはねまわると、たのしくなりました。まんなかにとうめいで平べったい鉢があります。蛙はその冷やこい鉢に寝そべりました。
 女は、鉢に、ワラジムシだの、ハエトリグモだの、ごちそうを投げてくれます。蛙は鉢のふちにつかまり、足をすべらせた生きものを舌にからめてのみこみます。それから、蛙はまた寝そべります。おなかのかゆいところを足でぽりぽりと掻き、ここは天国ではないかしらん、蛙は大の字になります。
 ああ、なにより、女のひとみ! 蛙は水槽の天窓をみつめます。毎夕ごちそうを投げてくれる女のすきとおったひとみ! あのひとみをみるたび、蛙のこころは洗われます。女の濡れ光った眼は、満月のようでした。


       〇

 
 しかし、女の世話はなおざりになり、蛙はやせほそりました。
「生きるってこんなもんかな」
 蛙は、ぼんやりした頭で、小さくうなずきました。


       〇


 ある夜、囚人のゆうれいがきました。水槽の蛙をみつめると、ああっと叫びました。
「……君、自由をどうしたんだ?」
 蛙はうすめをひらき、ゆうれいの燃えるような眼をみました。
「ゆうれいさん、お気遣いありがとう。おれは風のように生きてるんだ。だから、お構いなく」
「……しかし、この水槽に風は吹くのか?」
「ハハ、ばかだね、ゆうれいさん。吹くも何も、おれが風さ!」
 囚人のゆうれいは、気むずかしい顔をしました。
「しかし、しかしね、この水槽は、君の棺桶じゃないか。そこからでることはできないんだろう。風のように生きて、棺桶に落ちるなんてね」
「それもまた、人生だろう。たのしいことに」
 蛙はこけた頬をゆるめます。囚人のゆうれいは沈思しました。囚人のゆうれいは、自由になることを望み、ゆうれいになりました。しかしともすれば、水槽の蛙のほうが自由にみえました。蛙には焦りがないのです。囚人のゆうれいは、たいせつなひとの家を一軒ずつ回っていました。生者にゆうれいはみえません。だから、ゆうれいは生者をただみつめることしかできません。時間はたっぷりとあるのにヘンな焦燥にかられて、一軒一軒、駆けずり回ってしまいました。それから、たいせつなひとたちの名簿に、「行きました」を意味するぺけ(×)をつけ、ぺけ(×)の数に、危うげな安心を抱いていたのです。それで今は妹夫婦をたずねる途上でしたが、はやくも満身創痍でした。それで、水槽の蛙に話しかけてみたのです。
 囚人のゆうれいは、蛙にひざまずきます。燃えるような眼が、蛙の胸のあたりできらめきます。
「蛙くん、ぼくの話し相手になってくれないか。というか、ここにしばらく居てもいいかな、どうか、しばらく」
「ゆうれいさん、お好きにどうぞ」
 蛙の口もとは三日月のようでした。


       〇


 蛙とゆうれいは仲をふかめました。
 蛙はゆうれいと女について語ります。ゆうれいは女の生活を覗いています。蛙はゆうれいの悪趣味をさげすんでいました。しかし、このごろ女の眼は鈍く渇き、竈をめぐる灰の渦にみえました。蛙は、女の身に何があったか、気になっていました。そうなると、ゆうれいが頼りです。
「恋?」
「蛙くん、恋だ。しかも、たちが悪い。相手は妻子もちの男だ。不幸に堕ちてゆく恋だ。しかも男は蛙嫌いときた。蛙くん、女が男を愛するほどに、君の面倒はなおざりになる。君は忘れられる。君は水槽で餓死するんだ」
「あの子は、だいじょうぶ?」
「君はお人好しか。なんだって、女を気づかう」
「ゆうれいくん、あの子の恋を手伝ってあげて」
「正気か。女を蛙嫌いの男とくっつかせたいのか?」
「お腹はすいても、心は同じさ」
「口は達者なんだな」
「ゆうれいくん、おれは風のように生きると云った。風は流されて消えるものだが、何もしないんで生きるという意味でもない。風は草を波うたせたり、木をなぎ倒したり、滝を砕いたり、風も力があるものさ。静まっては、また吹きあがるさ。おれの月であるあの子が、哀しんでいるんだ。助けてやりたくなるのが、おれなりの風さ」
「君はばかだね」
 ゆうれいは、呆れました。


       〇


 ゆうれいは囚人でした。あるひとの罪をかぶったのです。死人に口なし。自分が死んでしまえば、そのひとの罪はなくなるとおもいました。ばかなゆうれいさん。ゆうれいは元恋びとの罪をかぶって死にました。
 ゆうれいさんは、恋に囚われる苦しみを知っていました。恋と自由ほど噛み合わない言葉もないんです。それだのに、蛙くんときたら、女の恋を助けろなどと云うのです。ゆうれいは、蛙くんのこころがわかりません。蛙くんはてっきり、女が好きなのかと思いました。「おれの月であるあの子」と云うくらいです。よほどのもんです。それだのに、女を恋の迷路に叩き落とすのです。女の自由をなくさせるのです。女から蛙の記憶を消させるのです。
 なんだって、あいつは、こんなことをするのか。ゆうれいさんはぶつくさと文句を云います。蛙くんに死んでほしくないのです。


       〇


 蛙のもとに誰も来ません。女も。ゆうれいも。誰も。
 蛙は、熱病にうなされたように、口をふくらまします。
 蛙の声が、木霊しています。


       〇


 蛙の亡骸は、女の手のなかでした。
 女は涙をこぼしていました。女は夢のなかで蛙のことを訴える声を聴いた気がしたのです。その声はだんだんとかぼそくなり、ぷつんと切れました。それから、女は眼を覚ましたのです。それで、水槽に急いで駆け寄ったところ、蛙はつめたい体で寝そべっていました。
 女は蛙のうつくしい寝顔をみつめました。女の月のような眼に、蛙は幸せに浮かんでみえました。


       〇


「あの子の恋は叶ったかい?」
 蛙は、ゆうれいと冥界にいました。蛙とゆうれいは眼を合わせています。
「……だめだと思うな。男は奥さんにぞっこんさ。男の夢に入ってね、女がいかによいかを語りつづけたけども、ぼくの体がもたなかったよ。気づいたらここに寝てた。しかし、蛙くん、君までどうして冥界に?」
「死んだからさ」
「飢えで?」
「まあね」
「そっか」
「でも、死んだら、ひとまずゆうれいになれた。それで、あの子の夢のなかに入って、あの子にこう呼びかけたのさ。おれを山に風葬してくれって。あの子はそのとおりにやってくれたよ」
「へえ! なんだって山に?」
「やっぱり、山がふるさとだと気づいたからね」
「ふうん。そうか。なんだか、水槽で死んだ君が浮かばれないな」
「そうかな? 悔いはないよ」
 蛙は寝そべりました。


       〇


 蛙とゆうれいは冥界に暮らしましたとさ。








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画像: コスタリカに生息するアカメアマガエル(著者撮影)



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