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珍客 (小説)

「大きく云えば、戦争、災害、小さく云えば、事件、病気、人間生きてりゃ、それなりの理不尽にぶちあたるさ。葉が枯れるように、空が陰るように、血が黒ずむように、風が凪ぐように、乾いた濁った張りつめた静寂に、ぜんぶが呑まれちまうさ。それでそいつはたまらなく苦い味なんだ。それで、なんで苦味を舐めながら生きにゃならんか、苦悩が始まってしまうんだ。つまり、(語り手は、手を右から左に動かす。)理不尽→苦悩の図式があるのさ。これはな、たいていのやつが通らされる、既定路線なんだよ。むろん、理不尽を知らないで死ねたら、それはそれで幸せだろう。でも生きるって甘くねえよな。泣きたいほどに甘くねえよな。理不尽は降ってくる。独りでに。唐突に。でも、理不尽で泥水啜らされた生命ほど玉のように尊く光るものなんだ。公彦、いずれ、ぶちあたるさ。理不尽ってもんに。でも、そういうときは、どんと胸を張って受け止めろよ。起きたもんは、どうにもならん。だから受け流しちゃだめだ。どんと受け容れちまえよ」
 最も先輩の木嶋は、先輩きどりのお説教を垂れていた。だが、彼、もともと自信がない。安居酒屋の机にしょんぼりとうつむき、虫喰い穴をわびしくのぞいて、先のような熱弁をふるっていた。それで云い終わってから、後輩の顔をこわごわとみあげるのである。後輩の眼がきらりと笑っていたのか、木嶋は「えへへへん」とおかしな咳払いをし、なみなみと注がれたお猪口を乾かし、口ひげに濁り酒の白い泡をこびりつかせて弱気に笑いはじめる。
 そんな木嶋を尻目に、三つ下の大輔はひきしまった顔に苦笑をうかべ、
「ほんとうにそうです。少林寺にも、受け流す技があるんですが、最後はたいていぶっ飛ばされます」
「ほぉ。まさしく、来るものは、対決しなきゃだめってわけだ」
 木嶋は、「まさしく、まさしくねぇ」と自分でまた呟き、巨体をゆすっては、へんに何回もうなずいている。それから、箸でバカにでかいレタスをつまみ、むしゃむしゃと勢いよく食べだした。大輔の澄みとおった眼は、最年少の公彦をうつしとり、
「公彦、そういう、理不尽な経験とかない?」
「いや、ないっす。なんか、おれ、なんも考えないで生きてきたなあって感じで。先輩に圧倒されてます、ほんとに」
「年喰ってるだけだぜ」
 木嶋は、レタスをくちゃくちゃ食べながら、つぶやいた。
「でも、木嶋さんには、敵わないっす」
 公彦は、純情そうなまなじりを笑わせた。木嶋は、「ゥエッへッへッへー」と変態でもしないような、『ワンピース』の海賊がやりそうな、きてれつな笑みをこぼした。後輩二人、つられて笑った。木嶋、ちょっと、涙目だった。自分のようなダメ人間を慕う後輩たちが、いいやつらすぎたのである。こいつらのために何ができるだろう。彼は、品性の欠片もなし、むしゃむしゃ、くちゃくちゃ、ふゆかいなオノマトペ製造機であって、落ちつきもなし、気も効かない、羽虫みたいなやつである。だが、唯一の美点を挙げるなら、情が烈しいのである。思いやるとき、凄まじく不器用をきわめるのだが。
 木嶋は、白髪のよく笑う店主に、熱燗とそら豆を頼んだ。
 人生の理不尽について語り終え、話題は、卑俗な恋愛にうつろった。青年という年頃であるから、甘酸っぱい話がいくつかでた。だが、木嶋に話の番がくると、木嶋節というのか、きてれつな恋愛譚が幕をあけた。
「このまえ、谷中のカフェにいったときのことさ。女性とたまたまとなりあったんだ。その子は、ブロンズの髪をした欧米人でさ、ちゃぶ台に肘をついて、腰をこうやって弓なりにして、お尻をこうぐっとつきだして、グローバリゼーションの本を読んでいた。おれのほうは陰気にあぐらをかいてね、芥川龍之介の『侏儒の言葉』を読んでいたよ。今のご時世だろう。本を読むやつに会うことが少ない。紙の本は、ちょっと、意識しちゃうよ。相手の本のタイトルを覗き見するくらい、よくあることさ。だからね、おたがい、目線をさげながら、ちらちらと見合ってたのさ。自意識過剰だけどもね、きっとこの人は、おれに話かけてほしいんだな? なんとなく、わかっちゃうんだ。そんで、相手の顔を頑張ってみつめた。ふいに眼が合った時、どこの国から来たの? 英語で問うてみたのさ。それで、会話が始まって、すぐにうちとけられた。別にやましい企みはねえぜ。ユースホステルのおちゃらけた交流とおんなじさ。でも、こうやって一歩踏みだすと、世も拡がるってわけだな。そうそう、それから……」
 木嶋は、機嫌よく、べらべらと喋った。しょんぼりとうつむいて話すから、唇の先端は虫喰い穴をさしていたが。すると、そのとき、思いも寄らぬ珍客が、三人のテーブルに闖入してきた。
「イヤァ、イヤイヤイヤ! さっきから聴いてたら、もうイライラしちゃって、何なの? 何様? (珍客は、大輔と公彦にふりむく。)あなたたちそう思わないの? 先輩面しちゃってさぁ、後輩はイヤイヤ聴いてるって感じじゃないの? わたし、もう、となりで坐ってて、イライラして仕方なくッてッ。ほら、どうしたのよ、先輩さん。続きは? それから? それから何なの? 何ッ!」
 大輔も、公彦も、あっけらかんとした。鴉のごとく口を尖らせた、年齢のおぼつかない、男とも、女とも、わからない珍客であった。胸のふくらみこそあるが、声の調子はへんにひずんでいて、語気が荒く、肩をいからしていて、眼が針のように窄まっていた。
「ほら、何! 云いなさいよ! 聴いてあげるから」
 木嶋は、「先輩面」「後輩はイヤイヤ聴いてる」珍客の言葉をどんと受け止めてしまった。もしかすれば、大輔も、公彦も、自分の話に退屈していたかもしれない。珍客の云う通りかもしれない。木嶋はしょんぼりとうつむいた。自分に自信がないのである。こういった来襲に、どんな言葉を返せばよいものか、木嶋はわからない。いや、その、えっと、この三つを慌てて呟きながら、真赤な耳をふるわせるしかない。
 しかし、大輔も、公彦も、珍客の酔狂をさげすんでみえた。酒場の壁にかかったテレビがうつろに大きく聞こえる。
「ほら、先輩さん、女の子を持て余してるんでしょ? 彼女五人? ね? それで後輩たちは、彼女三人ずつ? みんな浮気し放題なんでしょ?」
 珍客はでたらめを云い始める。珍客は、沈黙が耐えがたいのか、刺すような眼で三人の顔を眺める。木嶋は、この段になり、後輩たちを小馬鹿にしたことに憤った。木嶋は虫喰い穴から顔をもちあげた。あひるのように口をつきだす珍客を、ひずんだ眼でねめつけた。
「あなたに、興味がないんです」
 それは、おもったより凄味のある声であった。消え入りそうな声量ながら、声にふくまれる情念がするどかった。それは、好きでもなく、嫌いでもなく、無関心を訴える拒絶の念であった。
 木嶋と珍客は、数秒、みつめあった。大輔は、すこし、息を呑んでいた。珍客は、木嶋の本心をみたのか、ひるんだように唇をふるわせた。
「すみませんでした! ほんとうに、すみませんでした!」
 珍客は強ばった声で謝罪をはじめた。肩を丸めるだけの、みっともない謝罪だったが。それでも、珍客は、ふたつとなりの席に後ずさりをした。木嶋を少なからず怖がってみえた。
「先輩、いきます?」
 公彦は、顎で出口のほうをしゃくった。木嶋はこれにうなずいた。
「すみませんでしたね! ほんとうに、ごめんなさいでした!」
 木嶋はなんともいえない悪寒にひたった。彼の首すじは発汗していた。彼は机の虫喰い穴をみていると、穴から木喰い虫が這いでていた。虫は甲殻にまつわった木くずをふるい落とした。酒場のうす暗い灯を見上げてから、のろくさと机をあゆんだ。木嶋はそんな木喰い虫を真似るように、うす暗い席から立ちあがった。
「先輩、先にでます?」
 木嶋はうなずいた。彼は、珍客が存在しないものであるかのように珍客のそばを通りぬけた。
「ごめんなさいでした!」
 木嶋は反応しなかった。しかし、木嶋の心は、かき乱れていた。珍客のために、木嶋の狂気が燃えて来そうであった。珍客と狂気によって関われそうであった。
「あのひとのせいで、せっかくの気分が台無しですね」
 公彦は、闖入者をさげすむように語った。
 会計を済ませた大輔が遅れてやってくると、
「ああやって、強く云うしかなかったんですかね」
 木嶋のやった無関心の表明に、少なからず疑を呈していた。
 三人は、御徒町のうす暗い通りを歩みはじめた。小春日和である。羽虫が掃きだめにむらがっている。木嶋は、二人を呼び止めた。二人の眼をみすえた。
「済まない。おれは、今からまた、あの客に会ってくることにした。おれは、理不尽を受け流しちゃだめだと云ったな? あの客は、おれからすれば、小さな、小さな、理不尽だったよ。おれたちのことをろくすっぽ知らずに、おれたちをおちょくってきやがったのだからな。だが、おれはあの客に興味がないと云ってしまった。向きあわずに斬り捨ててしまった。おれは間違えてしまったよ。なぜなら、おれはあの客に興味しかなかったからさ。おれはあの客を抱きしめたかったよ。あわよくば、あの客とキスしたかったッ! あのとち狂った客に、おれは少なからず自分の真実をみてしまった。おれは、もともとあっち側の人間だったのだ。いかなる普通をうち砕く奇人だったんだよ。それがあんまりにも日常に傾斜しすぎていた! 理不尽も何もかも抱擁してしまう奇人でありたいのに! 大輔! 公彦! お前たちも来るか? 理不尽を愛しに行くか? どうだ! おれは新たな珍客になってやるぞ!」







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