快刀乱麻 (小説)
硯に筆をたっぷりとつけ、四度の深呼吸、十五度ばかり身を屈め、半切の和紙、かるくおさえる。
「……快刀乱麻」
これからしるす四字である。男は、おのれの恥をすすぎ、死ぬために書くのである。その悲壮な信念に、まともな同情が得られるほど、世は清潔ではなく、堕落していて、手狭ではあるが、やわらかいものを食べ、ふんわりしたものにうたた寝できるほど、平和な世になっていた。してみるに、この世からすれば、死ぬことも、それに際し、筆をしたためることも、云わば、美しく死ぬ武士道のまねごと、地に足のついていない、おろかな空想人のたわごとにしか、思われないのであるが、この男、世捨て人をきどっており、世とは無縁に、彼の信ずる道を歩むために、最後に花を咲かせる覚悟をもっていた。
男はさしたる才をもたなかった。だが、自身のつつましい誠実を、誇りにしていた。まじめにコツコツこなすタイプで、信頼もあつかった。
広告代理店の一般職に勤めて八年目、上司の着服をみぬいてしまった。広告の発注をでっちあげ、経費をくすねていたのである。男は、これをひみつにした。上司を吊し上げることは容易であった。しかし、男は、個人的な信条も相まって、会社の人事部に告発しなかった。経理部の同僚にも告げなかった。直接、上司に《出頭》をねがいでた。男の信条として、社をあざむいた上司から、誠実な声を聴きたかったのである。ややもすれば見せかけだらけの現代社会に、形式的な謝罪をするのでもなく、法的処罰に淡々と服するのでもなく、人間の真実をさらけだしてほしかったのだ。
何がお望みなの? 上司は硬直した眼差しで男をみつめた。《出頭》です、男はせり上がる不快さを忍び、つめたく云った。上司は、男のそばにすり寄った。男に口止め料をさしだし、ごめんなさいね、私にも家族があるの、ゆるしてちょうだい、などと涙をうかべて縋りついた。家族……。男の胸はあおぐろく曇った。こんな化け狐を母にもったせいで、世の憂き目にあう子供がやりきれないなとおもった。男は、封筒をはねのけ、貴様、汚いぞ! まだ、あざむくのか! 上司に吠えかかった。上司は梅干しのように目をすぼめ、……待って、おねがい、はやまらないで。……二月下旬に、娘の大学入試があるの、三月上旬に、卒業式もある、おねがい、身勝手なのはわかっている、でもみじめな私の犯罪で、娘の明るい未来が閉ざされるとおもうと、とても、とても、やりきれないの、おねがい、そのあと幾らでも罰は享ける、おねがい! 娘の人生だけは! 上司がひざまずいて哀願するに至り、男、ますます胸があおいろに曇った。同情が働きすぎるのである。このまま、正義の剣をふりかざし、娘の未来を破却することは、男の望むところではなかった。あなたを信じていいんですね? 男はすみとおった目で上司をみつめた。上司は、神に誓って、と厳粛な面持ちで男をみあげた。男はかるくうなずいた。証拠はもっておきます、卒業式が終わったら《出頭》してください、それだけ云いきり、夜の倉庫をあとにした。
しかし、男、ばかである。「二月下旬」「三月上旬」という曖昧な日付や、「みじめな私」という被害者意識や、上司の発言に、怪しいところは幾つもあるのに、男、へんに早合点して、追及の手をゆるめてしまった。中途半端なやつは、これだから、だめなんだ。抜け目のない上司に、高三の娘などいなかった。時間稼ぎであった。ふた月もあれば、小生意気な男など造作もないと、上司はほくそ笑んだ。男は、人を信頼しすぎていた。証拠の保管も、ずさんであった。上司は、盗っ人を雇うと、男の家から証拠のファイルをかっぱらった。クラッカーを雇うと、証拠のデエタを抹消させた。男の牙をぬいてやってから、男の無能さを人事部に告げ、経理部からの信頼もまゆつばものなのか、男は地方に左遷された。
男は、闘いつづける意味をみいだせなかった。自分から辞表をだした。敗北者に成ることを享けいれた。男は、この一件から、この世がとんと無意味におもわれた。こうまでして利益に縋らねばならない世、力をかざしてズルをする世、これが人間の真実かと打ちのめされた。
同時に、時折湧いてくる悔いに苦しめられた。その悔いは、上司にあのようにあざむかれた、自身の恥をさしていた。男は、一風、変わっていた。上司を恨まなかった。むしろ、自分の恥をこっぴどく恨んだ。男の両親は、詐欺師であった。仲間が捕まったのち、親は青木ヶ原で首を吊った。夜八時に帰るからね、カニ鍋よ、これが親の最後のあざむきだった。男は、三畳半の部屋で、カニ鍋を待っていた。もちろん、だれもこなかった。男は保護されると、孤児院に育てられた。(最初の晩御飯に、かたいかぼちゃのほうとうをたべた。)それゆえ、上司の娘に同情し、上司の着服をふた月もみのがし、ひいては、上司にあざむかれたことは、婉曲的に、自分への同情、親の犯罪へのみてみぬふり、親にあざむかれた最後の別れぎわに重なり、男の生涯をゆるがす恥におもわれたのだ。
生まれかわろうとおもった。生まれかわろう? 男は、この浅はかな人生に終止符をうち、地球を流れる灰になろうとおもったのだ。
大晦日、男は、先祖の墓のある芦安に来た。男の先祖は、武田家につかえた武士であった。夜、無住職の寺に忍び入り、蝋燭をともした。ふところより道具をならべ、堅い木のうえに正座した。火がゆらぐと、硯は赤紫にきらめいた。墨を磨り終え、あとは、書くだけだった。
「……快刀乱麻」
なるほど、こうしてみると、これは男の自戒の文句とわかる。「快刀乱麻を断つ」は、『北斉書』の美談であるが、北斉の初代皇帝、文宣帝が、子どものころ、父の高歓に、麻糸の結び目を元に戻しなさい、と試されると、いきなり刀を抜いて結び目をぶった斬り、乱れたものは斬らねばならぬ、こう云ったことから来ている。暴君のざれ言にも聞こえるが、男は乱れたものを斬れなかった。同情心から、上司を直ぐに斬れなかった。言葉は、人によって異なる響き方をするものであるが、男にとって「快刀乱麻」ほど身に沁みる語もなかった。
自戒は、反面教師になり、世の支えになる。男はこう考え、今までみたこともない真剣な顔をし、筆に魂を込めようとした。
男は、筆を降ろす始点を定めるべく、紙のうえに目を泳がした。硯の海より、筆をひきあげ、硯の丘に、ひたひたと筆をととのえた。
……「快」の「忄」の右点を、筆(八号白峯)を下からもちあげるようにうち、空気の入るように、やや離れ気味に左点をうち、上から、右点の中心を射ぬくように筆を曳き降ろす。「夬」の▢がゆるく膨らむように、ふとくしならせて筆を捌き、左へ流し、ざっと折り返して▢をすぎてからとめる。墨を足し、やや上方から、まっすぐに降ろし、やわらかく左に払った。ひと息をおき、「刀」のことを考えつつ、「快」のおおらかさがにじむように、右の払いをそうっとおいた。
後ずさりをして、「刀」の一画目、筆を横に寝かしつつ、右斜め上に弧をつくるように、ふとめの線を曳きのばし、力をぬき、ひと呼吸ととのえてから、下へと力強く降ろし、ざっと撥ねる。内よりほとばしるように、二画目、かすれさせながら、すばやく払った。
後ずさりをして、墨を足し、「乱」の一画目をざっと払う。二画目、左の下方より、右上に重々しくのばす。短めに三画目を降ろすと、「口」をひと筆に書き、「乚」は、やや斜めに倒して筆を降ろし、「口」のそばで右に折れてから、横に曳いたあと左下へ撥ね、筆のあとをのこしつつ、「麻」の一画目をうつ。後ずさりをして、墨を足し、「广」の二画目は左より入り、右端から折り返して左に流し、揺れた筆のまま斜めに降ろし、降ろした末端から、「广」の中に入り、「林」の一画目(枝)へつなげる。「林」の二画目(幹)、左に反れるように降ろし、三画目(根)、すばやく払うと、払い終わったところから、折り返すように、「林」の右の「木」へつなげる。「木」の幹、左に反れるように降ろし、末端で左に撥ね、「木」の根、左に払ってから、根の端より右に折れ、やや上にふくらむように右に曳き、とめた。
――「快刀乱麻」。
男は白く濁った息をふかした。うまくいかなかったのだ。もっともらしく、やっているとみえ、その実、筆はそのとおりに動かないものだ。よくみると、「夬」の四角はおしつぶれ、「快」が窒息してみえた。「刀」は、一画目の丸みが足りず、錆びた棒のようにこわばっている。「乱」も、「麻」も、かすれ加減がよくない。こうなると、だめである。男は、文鎮をおしのけ、和紙を畳み、床にほうり投げた。
〇
それから、一体、何枚書いたものか、知れない。
うず高く積もった紙屑に、男は苦笑を禁じ得なかった。まったく納得いかなかったのである。しかし、男の死ぬ決心は揺らがなかった。是が非でも、死にたかった。男は仕方ないと息をふき、これまで書いた「快刀乱麻」から、最良のものを選ぶことにした。紙屑の山を崩し、しわをていねいにのばした。そうして、和紙を渦状にならべた。男は、蝋燭をいちいち翳した。「ああ」だの、「ふん」だの、唸りに唸った。
男は突然、「あ!」と澄みきった声をあげた。東の山に、黄金の雲がたなびいている。寺に正月の陽が射しいり、和紙の渦を断ち割るように、光りの線が曳かれてゆく。
男は、どんな筆の捌きよりも、この朝陽こそ「快刀乱麻」にみえた。そうである。朝陽ほど、乱れたものを両断する、暖かい、約束を守る、子を世話する母のような、誠実な存在がありえようか。男はそのとき「快刀乱麻」の精髄をみとめた気になった。
男は、和紙をひろげ、筆を硯の海につけた。筆をととのえ、白紙に「快」から書いていく。……死のいざないを斬り、書家として生まれかわろうと決意した。
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