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同じ落語が何度も楽しめる理由

日本の伝統的話芸、落語。学生時代に落語研究部、通称落研に所属し、大学生活のほとんどを落語に注いだことで作った思い出は今でも僕の財産である。

海外で生活しているとやはり、自国の文化や魅力が改めて見えてくるということもあってだろうか。オーストラリアで出会った日本人に落語経験者であることを話すと、ありがたいことに興味を持ってくださって色々質問してくださる方も多い。

そして最近、知人から次のような質問をされた。


「なんで話の筋が分かってるのに何度も聴く人がいるんですか?」


寄席と呼ばれる定席や落語会でプロの噺家さんが主に演じるのは、古典落語と呼ばれる既存のモノ。この古典落語の種類は現在口演されているものであれば数百ほど。珍しいものを除けば更に数は限られる。故に寄席や落語会に何度も通っていれば同じ噺に巡り合うというのは避けられない。僕も学生時代から数多くの落語に触れてきたため、寄席に行って今まで聴いたことのない落語しか聴かずに帰った、なんてことはまず起こり得ないのである。

にも関わらず、落語という芸能には数年、中には数十年と寄席に通い続ける一定のコアなファンがいるのは事実だ。それは間違いなく、知っている噺(はなし)だとしても、面白いからなのだ。

ということで今回は、なぜ同じ噺を何度も聴いて飽きないのか、なぜそこに面白さを見出せるかということを自分なりに考察していこうと思う。


○音の違いを楽しむ

落語家兼コメンテーターである立川志らく師匠曰く、歌手と俳優だと落語をやらせたら上手いのは歌手の方だと言う。落語は舞台上での出し物ではあるが、そのクオリティは演者さんの口調やメロディ、つまりは音によるところが大きいということだ。プロの落語がDVDだけでなく、CDなどによって音源化されているものがあるというところからもこれはご理解できるかと思う。落語は、音を楽しむ芸能なのである。

落語による音はその演者の声によって作られる。当然演者が違えば声も違う。つまり演じ手が違うだけで、同じ噺でも大きく性格が変わってくる。同じ噺でも、「この噺はこの師匠のが好きだな」なんて事象が大いに発生するわけだ。

ちなみに僕は作業中に時折噺の内容はあまり頭に入らないけど、とりあえずbgmとして落語を聴く場合もある。洗練された落語はそれだけ音として心地良いものだ。


○噺の演出の違いを楽しむ

音の違いによって噺が違うものになりうるというのは前述した通りだが、同じ噺の演出の違いを楽しむというのも落語の醍醐味だ。

噺の筋や終着点は同じでも、キャラクターの演じ方や随所で人物が口にするクスグリ(ギャグ)は落語家さんの流派や演者にかなり依存する。中には噺のサゲ(オチ)を変えてしまう方、もっと凄いものになると古典落語の舞台を現代に直してパロディ的に演じられたものだったり、演題は同じだが全く違う噺に魔改造してしまう方もいたりする。こういった噺家さんを追っかけていると、既存の噺をどんな噺に変えるのかを楽しむこともできる。


〇普遍的な面白さ

これまで「同じ噺でも演者が違えば違った噺になる」という観点からお話してきたが、同じ噺家の師匠が演じる同じ落語を聴きたい、という場合も往々にして有りうる。

なぜなら、落語は何度聴いても笑っちゃうからだ。

これは漫才、コントといった演芸にも当てはまる部分があると思われるが、(僕はかまいたちのUFJの漫才は何度見ても笑える自信がある)特に落語は予想の斜め上をいく突拍子もない展開で笑いを取るというよりは、通俗的な間抜けさ、バカバカしさによる面白さの方が大きいように思える。だからこそ、何度でも笑え、そして現代の人にも通用する滑稽さがあるのだ。というか冷静に考えて、100年以上前に作られた作品が現代人を笑わせているというのはとんでもないことなのではないだろうか。落語は、僕らの遠いご先祖様が作ってくださった偉大な財産だといえるだろう。


おわりに

大学を卒業し落研から離れ、以前よりそれほど頻繁に落語に触れることはなくなったものの、一度ハマってしまうとなかなか抜けられない中毒性がこいつにはある。当然生で聴くのが一番だが、現代はウェブ上にもかなり多くの音源が存在するため、新しいコンテンツを探している人はこの機会にぜひ落語をどうぞ。

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