699/1096 自己否定したままですら、愛されている
吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で699日。
(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)
699日目、600日目台最後の日だ。素直に嬉しい!そうそう、素直と言えば、今日はシェアされているのを見かけて他者のブログを読む機会があった。そして、人の振り見て我が振り直せと思ったのだった。
これはわたしが歪んでいるからでもあるのだけれど、斜に構えている人の文章を読むと、どんな真理を伝えていても「大変そうだ」と思ってしまう。のに、同時に気持ちがわかる気がしてしまう。
書く以上は読んでほしいはずだ。反応もほしいはずだ。なのに、「別に人気とかほしくない笑」「~っていってるやつわかってない笑」「あ、別に俺はどーでもいーんだけど笑」と斜に構えるのは本人は気がついていなくても実はモテたいだけなのだろうと確信してしまう。しかもその斜に構える必要性から発されるもののみが読後感となってしまい、伝えている内容がどうでもよくなってしまう。わたしという読み手が悪いのだと思いつつも、寒い。自分も気をつけよう。などと思った。
寒いなあと思うくせに、実は気持ちが分かる自分がいる…友よ…などと勝手な仲間感を持ってしまい、その自分がキモい。わたしは斜に構える人に対して偏見を持っている。そのため、自分がそういうことを書いたときにも自分にそう思ってしまう。歪み歪み…!笑
わたしも斜に構えてみたらいいだろうか。でも偏見があるため難しい。
わたしは正直、書いたものに反応があったら嬉しい。
人気が出たらそのことも嬉しいだろうと思う。
そこそこ頑張るのも好きだし、愛されるのは嬉しい。
あれこれ歪んでいるし、満たされていなかったりするから、愛されるのも承認されるのも結果が出るのも、やっぱりそれなりにそこそこ嬉しい。
なんか、そんなもん。みなさんはどうですか。
普通ってなんだって話だけれど、普通っていいな。落ち着いててまっとうで、普通なものに憧れる。普通ってなんだって話だから、死ぬまで「そうなれた!」とは思えないのだろうけれど。
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みなさんは、普通に憧れる、という感覚があるだろうか。
わたしは子どものころからあった。
健全な感じがまぶしくて、いちばんの憧れだった。
友だちを作り、仲良くして、親から100円くすねてきた、みたいなことが言えて、ちょっといたずらをして遊んだり、たけし軍団を見て笑ったり、グループでつるんだり、ちょっと派閥を作って敵対したり、先生にサプライズを仕掛けたり、みたいなことができる子が羨ましかった。
なのに自分は、友だちができないし、仲良くできないし、親が貧しくていたたまれなかったし、いたずらに異様な罪悪感があったし、たけし軍団を見ると泥溜まりに落ちる人がなぜか可哀想になってしまうし、友達がいないからそもそもグループに入れないし、派閥の敵対を見るとこっちがソワソワするし、先生が嫌いだった。魔太郎だった。
そういう感覚が大人になってもあって、自分はメンヘラが激しいから、健全な人が羨ましいよ…とばかり思っていた。もうこれがめっちゃ辛かった。
こういう感覚にある人は、その後どうやって生きているのだろう…
わたしはあんまりそれが辛いから、「このままじゃいかん!!」と思って真理のことや意識のことや悟りのことに興味を持ったのだった。そしてそう、ますます辛くなった。今思えば、その辛さがあってよかったと思う。危なかった、そこで辛くなれてよかった!!と思う。だからね、スピリチュアル難民みたいな時期があってつくづく良かったと思う。
そのあいだ、ずーーーーーーーーっと、ベターな自分になろうとしていた。
ずーーーーっと、なにかを見つけようとしていた。
なにかに至ろうとしていた。なにかに達しようともがいていた。
ほんで、そのあいだなにも見つからなかったとも言えるのだけれど、でもやっぱり少しずつ、コーナーに追い詰められたし、じりじり焦げていたし、失望も高まったし、苦しかった。自分にだけはこういうの無理なんだわ!!という気持ちを無視して、もっとなにかに触れれば変わるはず!と思ったりなんか、していた。
そしてもうあるとき、「無理」「自分にはこの自分しかないんだ」「なんもねえ」と思って、ファイティングポーズをやめてリングから降りた。
の、途端、うわあああああああああああああああああああと思った。
もう、そうとしか書けないのだけれど、うわああああああああああああああと。「あるがままの自分しかいないって、この、なんかほんと、自分にはこの自分しかいないっつーことなん、かあああああああい!!」と思った。
ずっと居たじゃん、自分ずっとここに居たじゃん?!?!え、居たじゃん!!今気づいたじゃん!!ずっと無視してたじゃん!!我あるじゃん、あったじゃあああああああああああん!!あああああああどこ見てたんだ、どこ見てたんだ、愚かな、愚かなあああああ!!と思った。
自分に対して、ごめんねごめんねごめんねごめんね!!!ずっと否定して、「こんなんじゃなくて別の自分がいいんだが」って言い続けてきて!!!どこに本来の自分がいるんだろうとか思ってきて、ごめんねええええええええええと思った。そうやって見向きもせず放置していたのに、自分と来たら、ずっと黙って、一緒にいてくれていたのだ。この哀れな生命体よ。この見捨てられていた命よ。見捨てていたのは自分でしかなかったじゃないか。
それがわかって、もうどこにでも書いているけれど、死ぬほどの懺悔が起こった。わたしは自分の人生で、あんなになにかに申し訳がないと思ったことはない。申し訳なくて申し訳なくて、泣いて泣いて泣いても足りなかった。楽園を探していたけれど、すでに楽園にいた。見捨てられていると思っていたのに、ずっと救われていた。自分で生きていると思っていたのに、生かされていた。愛を求めていたのに、自分を含んだ全宇宙が愛だったと気がついた。バカみたいに使い古された言い方だけどさ。
みなさんは、マーガレット・F・パワーズというアメリカ人女性の作った『Footprints(足跡)』という詞をご存知だろうか。
著作権があるのでここには載せないけれど、どうか検索して和訳を読んでみてほしい。要約してみると、
ある人が自分の人生で一番つらかったとき、夢の中で海岸を歩いていて、振り返ると足跡が一人分しかなかった。そこで神さまに、主よ、あなたはなぜわたしを見捨てたのですか、なぜ一緒に歩いてくれなかったのですかと訊く。
それに答えて神さまがこう言う。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。苦しみや試みの時にも。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていたのだよ」と。
わたしはこの神さまというのは、自分のことなのだと思う。あなたを決して置き去りにしないで、いつも一緒にいてくれているのはあなただ。
わたしたちがどんなに自分に向かって、「こんなんじゃ嫌だ、こんなんじゃ足りない、こんなんじゃ価値なんかない」と言っても、黙ってわたしたちであり続けてくれている存在。
わたしたちがもし誰かに「お前なんか嫌だ、価値がない、嫌いだ、もっと良くなれ」と言われ続けたら、わたしたちはどんな気持ちになるだろう?
わたしがそれをずっと自分に言い続けてきたこと。
それによってずっと傷ついてきたこと。
自分を愛するということは、それをただ、やめるだけだった。
自分がもらった自分という人物は神さまだったのだと思った。こんなことを書くとね、なんか変な宗教にハマったちょっとイカれた人に見えるかも知れないけれど。
わたしたちは、自分で自分をどれほどに嫌おうとも、自分という人物を丸ごと受け入れて生きている存在だ…
だから、もう受け入れるものなんてないのだね。
好きにならなくてもよくて、愛さなくてもいい。
嫌ったままですら、よかった。
なにかに依存していても、なにかを呪っていても。
それすらも、神様は黙って一緒にやってくれている。
自分はただもうそのまま、神の愛する人物だったのだと、気がつくだけだったんだね…
というわけで今日は、自己否定を直すのではなくて、自己否定したままでいいのだという気付きについて、わたしの経験のシェアでありました!
書いていて泣いたよ~
誰かと響き合えますように。
それではまた、明日ね!!
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