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1008/1096 魂に、大人の都合は通用しない

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1008日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1008日目。残り88日…うわあ~もう終わったも同然じゃないか。と思ってしまうほど、1000日を過ぎてからの数字の進みが早く感じられる。

三年弱ほど毎日書いていると、書くことを組み込んだスケジュールが生活のすみずみにまで浸透していて、これが終わってポーンと抜けたあとに、生活がどう変わり、自分の心境がどう変化していくのかがミステリアスに思える。心にぽっかり穴が空くだろうけれど、そのあとそこに入ってくるものはどんなものなのだろうと思う。

こうした謎を自分に持たせるには、なにかを続けて、それに慣れ親しんで、すっかり馴染み、それをあるときパンと破って失うというプロセスが確実な有効性をもつと思う。人は、続けたことにはどうしても慣れていってしまうものだから、なにかを続けて、あえてそれをやめてみると、大きな変化にならざるを得ない。

変化が約束されているようで、ソワソワ、ワクワクする。それが88日後だなんて!残り三ヶ月を切ってしまったからには、もう命がけで(大げさw)最後までたどり着きたい。こんなに大事なものになってしまったからこそ、終わってしまったらどう思うのやら。今の自分が死んで、今の自分が気がついてもいない思い込みが解けて、嘘みたいな思いができますように。

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みなさんには、さみしく、つらい思いをした経験がありますか。わたしはたくさんあります。人類約70億人のうちのほとんどが、あるものだと思います。

寂しいとか、悔しいとか、ばつが悪いとか、切ないとか、恋しいとか申し訳ないとか。復讐してやりたいとか、返してほしいとか、恥ずかしいとか、消えてしまいたいとか、死んでしまえばいいのにとか、許せないとか、行かないでほしいとか、帰ってきてほしいとか。。

あなたにとって、そのうちでいちばんつらい思いというのは、どういうものでしたか。

わたしが今パッと思い出せるものは、自分が無一文になったことでも、親の愛情を諦めたことでも、失恋したことでもホームレスになったことでも、暴力を受けたことですらもなく、

自分の純粋な思いを裏切ったこと、です。

ひとつは、ある日どうしても人手が足りなくて、工事に行かねばならなかった日のこと。その日、娘を保育所にあずけて仕事に行ったのですが、保育士さんに娘を託して去るときに、保育所の横を通って車に向かう際、ガラスの壁に両手をペタっとつけて、こちらを見ている娘の横を通りました。

騒いでいるわけでも、泣いているわけでもなかったけれど、娘はわたしたちが夕方まで帰ってこないことをわかっているのかわかっていないのか、ただ少し微笑んで、でも微動だにせずにこちらを見ていました。ガラスに押し付けられたもみじのような小さな手が、真っ白になっていました。

それを見てわたしはその日だけは、なぜかすぐに娘のところに戻りたいという衝動に駆られました。それをなんとかこらえて歩き出しましたが、娘はわたしと前夫が何メートル離れても、じっとその姿勢のままでこちらを見ていました。わたしは仕事に行かずに娘を保育所から連れ出して、一緒にいたかった。拳を握りしめるほど、つらかったのです。でも、それを無視して無理矢理に仕事に行きました。その日はずっと、娘を恋しく思いながら仕事をしました。

夕方娘を迎えに行って保育室をのぞくと、娘は黙ってひとりで遊んでいました。おもちゃをただ触ったり、転がしたりして、ひとりぽつんと、とても寂しそうに退屈そうに。保育士さんが娘を抱いて連れてきましたが、その顔に笑みはありませんでした。まだひとりで遊んでいる間だというような顔をして、状況の変化を観察しないで、周囲から自分を閉じていました。

他の子に馴染めず一日ひとりでしたが、いい子でしたよ。と報告をうけましたが、わたしはその時、とてつもなく後悔しました。なぜ置いていかれるのかがまったく理解できない、分別つかない歳の子どもを、わたしはどうしてここにひとり置いて、仕事にいってしまったのだろう。

なんでもないようなことですが、でも娘が大きく育った今でも、あの日のあのガラスに両手をついてこちらを見つめた娘のことが、忘れられません。わたしはあの日、娘と一緒にいたかった。ただ、一緒にいたかったのです。だから、まっすぐにそうすればよかったのだと思います。けれども、その自分の純粋な思いを殺して動いてしまったことが、のちのちまで自分を傷つけました。娘がどう感じ、あの日をどう過ごしたのかは、わたしたち他者には永遠にわかり得ません。もしかしたら、目新しい環境から刺激を受けて楽しんだかも知れないし、そうでなくとも良き成長のあった日なのかも知れない。けれども、自分の思いは宙ぶらりんなまま、その後も長いことなかなか成仏しなかったのです。

もうひとつは、まだ前夫が彼氏だったころのこと。当時わたしは、お金を稼ぐために夜にクラブで働いていました。働き始めたばかりのころはそうでもありませんでしたが、たくさんのお客さんがついてからは、お店が終わっても別の場所に移動して、一緒に朝まで飲むことが毎夜のように続きました。

前夫は同じお店でボーイとして仕事をしていましたが、わたしがお店を出てどこかでお客さんの飲みに付き合っている間、決して一人でアパートに帰ることをしませんでした。わたしが仕事をしているのに、家で休んでいるのは耐え難いと言って、凍えるような真冬の空の下、わたしがタクシーで帰ってくるまで、いつも家の周囲で待っていてくれました。

わたしはそんな生活がつらく申し訳なくて、早いところぜんぶやめて好きなことをしたいと思っていました。けれども、そのとても純粋な思いを無視して、仕事を続けていました。ただあのときに、もうこんな暮らしはやめて、貧しくとも暖かく暮らそう!!と言いたかったのに、お金のためだと考えて無理矢理その心の声を無視しました。そのあともやはり長い間、あんなに寒いところで5時間も6時間も外で待たせてしまっていたころのことを思うと、胸が痛くて痛くて、たまりませんでした。

他にも、つらかったことを思い出そうとすると、「自分が純粋な思いを無視して、自分の愛情を思う存分に表せなかったこと」ばかりが思い出されます。そんな思いは相手にとっては余計なお世話なのだろうし、こちらの勝手な思いなのは十分にわかっているのです。もしかしたらその愛情を示したとしても「余計な心配はかえって迷惑」と言われたかも知れない。でも、それならばきっと「なあ~んだ余計なお世話だったか」で済んで、引きずることなどなかったのでしょう。

自分をなによりも傷つけるのは、それをしなかったとき。
自分の愛情を、行動にして示さなかったときのことばかりです。

人はきっと、自分の内に秘めている愛情を、形にして思い切り十分に表さなかったときに、なによりもつらい思いをするのだと思います。自分に対してでも、他者に対してでも。やりたいようにやって、わたしはこんなに勝手に愛してるよ!!!とやらなかったときの、そのやらなかった後悔や罪悪感というのは、消化がとても難しい。その「やればよかった」という思いというのは、誰にとっても簡単には成仏しないものだと思います。わたしは秘行をとおして、これらが成仏するのを体験しました。

やったことで後悔することなんてありません。でも、やってみなかったことは、それをやってみなかった理由がどんなに正しくても、自分を傷つけ続けます。その「やってみたかった」という魂の純粋な思いには、正しいとか間違っているとか、得だとか損だとかいうことが、通用しないのです。それでどれだけ自分の理性が納得しても、わたしたちの”純粋な好奇心”は、そんなことで納得はしてくれません。

親に対しても、友に対しても、たとえ憎い人に対してでも、自分の愛の部分を表現しきれたら、それほどに引きずることなんてきっとないのでしょうね。自分の思いを汲んで、自分の表現したいようにやってあげなかったときに、わたしたちが置き去りにするのは自分自身だからなのでしょう。

自分を無視してしまうと、それを知っている自分自身が、わたしたちを責め続ける。自分の正義は自分の中にあって、自分を罰するのも自分で、いつもそんなお日様のような仏さまのような、ずるくなくて、いつもいつも愛のほうを向いた人が、わたしたちひとりひとりの中にいるのだと思います。

だから、迷ったときには、いくら照れくさくても、いくら損するように見えても、いくら気まずくなったり、バツが悪かったり、大変になったり怒られるとしたって、できるかぎり愛のほうを選んだほうがいいのだと、わたしは思います。一時的に状況が荒れたって、それは他でもないわたしたち自身に、良いことを運んでくると思います。

頭でわーわー考えるのとは別に、自分の奥が嬉しいほうに。
自分の知ってみたいことを、知られるほうに。
自分が正義だと思うほうに。

楽なほうに逃げないで、自分の愛や純粋さを井戸の奥から引っ張りだしてあげるほうがいい。いいに決まってんだ!!と思います。魂に、勝手な大人の都合なんて、通用しないから。そして魂のほうが実はずっと、調和のとれた和合をわかっているのです。わたしたちのほうこそが、そこにやんややんやと反抗をしているのですね。

自分の中のそんな純粋な思いを形にしてあげられてこそ、わたしたちの反抗期の、ほんとうに終わるとき。自分の中の子どもを放し飼いにして、そのお世話をし、その子と仲良く共生できて、やっと大人なのです。

というわけで今日は、わたしたちの中にある純粋な思いを大切にすることのすゝめについてのシェアでございました。

それではまた、明日ね!

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