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1031/1096【ネオ・ブッダ】自他の喜びに”境界線はない”と考えてみよう

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1031日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1031日目。今日、以前質問箱で回答させていただいた方からのメッセージが届いていました。読んで、喜びで打ち震えました。人はすごい。真剣に生きる人は美しいな。尊敬心あふれてきます。

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人の決心ってかっこいいな、涙が出るなぁ。こちらこそ、毎日投稿に採用させていただいて感謝しています。どうもありがとう。

勝手に書いているものなのに、質問者さまたちから頻繁に回答の返信をいただいていて感激。。こんなに嬉しいやり取りが生まれるのが毎度のようにありがたいです。今日もこの場を大切にして書こう。

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いろんなところで、自分を大事にしようと言われますよね。これはとても大切なことだと思います。まず自分を大切に扱わなくては、どんなものも大切にできません。

けれどもそれをやっているうち、だんだんと満たされて気が済んでくると、その感覚には変化がやってきます。自分を大事にすることと、自分以外のものを大事にすることとが、おなじことになってきてしまうのですね。そこを分けていた決定的な境界が、落ちてなくなるということです。

自分が自分でないなにかを大切にしたときに、自分の心が満たされていることを感じられると、結局は自分で自分を大事にして満たした時とおなじだと感じられるからです。これによってわたしたちは、「逆にもともと自分のことしか大事にできなかった」のだということに気がつきます。

自分のことしか大事にできないし、自分のことしか蔑ろにできない、とも言えてしまうのですね。つまり、「どこまでも自分のことしか扱えない」ということですね。これが熟すと、自分と他者との境界線がない観点から、世界を見ることができるようになります。

熟したかどうかというのは簡単にわかります。例えばなにか選択を迫られたときに「これは自分のためかな、それとも相手のためかな」と考えたり、「自分のためにと考えるとこうしたい。だけれども、相手のためにと考えるとこうするべきだ…」というように、そこに迷いや葛藤が現れるうちは、熟していないのです。

それならば、まだ自分を大事にすると良い時期なのですね。迷ったら、心の喜ぶほう、豊かに感じられるほう、愛らしく感じるほう、嬉しく感じるほう、ドキドキして好奇心の湧くほう、良い予感のするほう、誇れるほう、勇気のいるほう、開くほう、満ちるほう、優しいほう、正しいと信じられるほう、笑っちゃうほう、カッコいいほう、美しいほう、感情の揺さぶられるほう、憧れるほうを選ぶと良いです。先祖や子孫に誇れると思うほう、後悔しないほう、これらのどれにも当てはまらないなら「今までと反対のほう」、を取るのも良いです。

選ばないほうがいいのは、自分で逃げになるとわかっているほう、今まで散々やってきたほう、悪い予感がするほう、誇れないほう、感情が感じられないほう、間違っているとわかっているほう、自分が嬉しいわけではないとわかっているほう、意地を張るほう、ダサいほう、汚いほう、醜いほう、劣等感に従うほう、後悔するとわかっているほう、神さま仏さま先祖子孫が見ていると思ったらやりにくいほう、好奇心を諦めるほう。

これをあまり深刻にならずに「間違ったらまたやり直そう~」と考えて、気軽に優しく選んでやっていくうちに、だんだんと「なにを大事にしたときにも、それを自分の喜びのために選んでいるのなら、自分のためなのと同じだな」と感じられるようになってきます。

たとえば弱った猫を助けたのなら、猫のために動いたのではなくて、自分の「生き物を助けた喜び」のためにやったと考える、ということですね。やっているうち、この認識がいつの間にか当たり前になってきます。恩を着せない発想、自己犠牲のない発想、被害者にならない発想、です。ちょっと節操のない書き方になってしまいますが、大袈裟に言うと「ああ、弱った猫のおかげでいい思いをしたわ」と考える、ということ。発想が逆転するのです。

こうなってくると何が良いのかと言うと、迷いがなくなってくるのですね。まず、決断が早い。猫のために時間損したくないな、でも助けなかったら罪悪感あるな、あーどうしよう、自分をとるか猫をとるか…?ではなくて、助けると自分の気分がいいのは間違いないわ、とすぐに決まる。それが自分の得だと真っ直ぐに考えられるからです。

AをとるかBをとるか、ではなくて、AもBも嫌なほうをとるか、AもBも嬉しいほうをとるか、という選択肢になるのです。答えがすぐに出ますよね。この場合で言うと、猫をとるか自分をとるか、ではなくて、自分も自己嫌悪&猫は置いてけぼりでどちらも嫌なほうか、自分も善人気分&猫は助かるでどちらも嬉しいほうか。こうなると、答えがすぐに出ます。

そして、なぜ決断が早いと良いのかというと、それは世界(現実)からのレスポンスが早くなるからです。時間が早く流れるのと似ています。流れの良い川の水が、流れの悪い川の淀んだ水に比べて澄んでいるのと同じで、迷いなくサクッと決めると運気が上がります。これは、周囲にも、世界にも、良い影響です。

(※よく考えて決めるのがダメというわけではありません。よく考えるというときに、可能性や選択肢をどんどん検証していくのは、その間も取捨選択が行われており、川の流れが早いのと同じです)

わたしたちが迷うときというのは、たいてい自分の損得を考えるときです。誰かのために、あるいは自分の別の得のために、もう一つの選択肢を諦めるのが嫌だ、というようなことがほとんどです。人の喜びために自分が我慢するのは嫌だな、でも自分の喜びを取ると勝手なのかな、うんぬんかんぬんというようなことですね。自分軸がどう、他人軸がどう、というふうに迷ってしまいます。

でも、結局自分に喜びがあればなんだっていいのです。他人の喜びが嬉しい、自分の喜びが嬉しい、それらはぜんぶ「自分の嬉しい」です。そこに境界線はありませんよね。それがわかってくると、いつも喜びを選んでいけるようになるということですね。いわば、他人の喜びのために動いていい気分になったのなら、他人をうまいこと使ってご機嫌になっただけであり、それは完全に自分のためなので、礼など要らぬわけですよね。むしろ「逆に良い機会をあざーす」なのですね。他者の喜びと自分の喜びとの間に、境界線がないのです。

これを、道徳的に精進してその境地に至ろうとするとか、人格者になるために努力をして至ろうとかするよりも、自他の喜びについてこの観点からサクッと実感を持って、フツーにロジカルに「そりゃ同じだわ」となってしまうのが一番早いです。

この観点を手に入れるのって非常に大きなことで、めっちゃ便利、決断早まる、運気上がる、あまり損得をごちゃごちゃ考えずに居られて気楽、そのぶん自己嫌悪レス、などなどいいことばかりです。自他の境界線がないとわかっているのは愛の本質により近いので、そのぶん自然体でもあります。喩えるなら、ネオ・ブッダ。(エラいのではなくてその分楽に在るということ)

ただし、自己否定から、あるいは自己評価の低さから、他者を優先して自分を我慢させたり低い位置に置いたり傷つけることに慣れていて、そのほうが落ち着くという人は、要注意です。これを、自分を犠牲にする言い訳に使ってはダメですよ。

「他人ばかり優先していていい」のではなく、あくまでも「そこに自分の喜びがあるかどうか」を見るようにしてください。

この記事にポイントがちゃんと入っているので、何回も読み返してまずは理屈だけでもインストールしてみてね。あとは現実世界で機会あるごとに実践し、それを実験し馴染ませていくだけですが、これがまた密かで楽しくて善きチャレンジですよね。チャレンジする時点ですでにシフトチェンジが起こるほどです。よかったら、これで遊んでみてね。

というわけで今日は、自分と他人との境界線がなくなるとお得ですよーという観点のシェアでござました。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)