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907/1096 人には価値なんかなくていい

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で907日。

※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

907日目。おやおや、ちょっと忙しかった数日間を抜けてみたら、もう900日台も7日が過ぎるところだ!あっというまに1000日までたどり着いてしまいそう…

ああ、9月にはこれの終わるのだ。終わるのだ…!ああ、きっと自分はそのあと、怠け者にも勤勉にも限定されず、きっと風来坊になるのだろう。初めてそんな気がした。

ふわふわと、好きなようにするだけ。そう思うのは、昨夜から雨戸をバラバラと気ままに叩く、太陽の熱を浮力にして舞い始めた春風のせいだろうか。

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「わたしは存在しているだけで価値がある」が極まって「自分に価値がなくていい」と思えている人がいかに少ないのかを思う。これって、たとえば宇宙の真理に覚醒したから、一瞥体験をしたから、自己啓発のいろんな手法をマスターしたからといって、それでパッと得られる感覚というわけではない。

誠実な人ならば持っている、あるいは美しい人ならば備わっている感覚というわけでもない。社会生活を放棄して自由に生きたって得られない。仕事をしないで生きたって、自分の存在理由を常に己に問い正して苦しんでいる人もいる。

わたしはこれまで「自分に価値がなくていい」という体感を本当に体現して生きている人に会ったことはない。きっとそんな人には、滅多にお目にかかれないものだろうと思う。

「自分に価値がなくていい」人ってどういう人かと言うと、言い換えてみると「”役に立つ自分”と”役に立たない自分”との間に、価値の差を感じない」人。

わたしは目的なく単に悟りたいという人よりも、この「”役に立つ自分”と”役に立たない自分”との間に、価値の差を感じない」人になることに興味がある人に共感する。目的なく単に悟りたい人って、悟りをステータスだと思っている人だ。もちろん悟った人がいたら、カッコいいし美しいし素敵な趣味してるなと思うし「すごい」と思うし学びたいと思うけれど、それはたとえばスケボーに乗るのが神かというくらい上手な人に対して覚える感覚と同じだ。

「”役に立つ自分”と”役に立たない自分”との間に、価値の差を感じない」人になるためには、ほぼ万人が”持っていることすら気づかないまま持っている、とても大きな枠”を突破する必要があるのだと思う。それを突破するとどういう人になるのかと言うと、例を表してみるとこんな感じになる。左はよくいる人、右が枠を突破した人ね。

○生きる意味が知りたい→ないよ。イチゴの香りに意味がないのと同じで。
○使命が知りたい→人生が使命、楽しきゃ使命、使命と思えばなんでも使命
○なんのために生まれたのか知りたい→いやなにそのタスク。うっざ~
○自分に価値があるって思いたい→鉱物とかダイヤモンドみたいに?値段がつくのと同じだよ。人に値をつけるなんて乱暴な発想だなあ

「”役に立つ自分”と”役に立たない自分”との間に、価値の差を感じない」人は、自分に価値をもたらす目的で人の役に立とうとはしない。そして、そういう人ほど無償に役に立つ人はいないと思う。ものすごい高周波の振動を放つその人物は、きっと周囲にいるものをその存在だけで癒やしてしまうから。そしてそういう人が自ら誰かの役に立つときは、単に面白いからやっているだけである。

例えばそれが恵まれない人々を救う行為だとしても、その行為を通して誰かの笑顔を見ることにやり甲斐とか面白みとか満足があってやっているのだ。だから万が一その活動のために亡くなったとしても、本人は犠牲になったとなど思わない。

ちょうどドラクエを楽しんでいるのと同じような感覚だ。ドラクエが面白くてやりすぎて死んだ人がいたとして、ドラクエの中のキャラクターたちが「俺たちをゾーマの支配から救おうとしてあの人は犠牲になったんだ!!」などと悲しんだとしても、「(いや…ただ楽しんでいただけだからそこは悲しまないでほしいっつーか、お前らのためじゃねえから…)」と思うのと同じなのだ。

ではどんな枠を突破するとこうなるのかと言うと、価値観の枠を突破することーつまり、個々が”重要度の水平線化”を起こすこと。その感覚でこの世を生きて、自分の現実世界の出来事に対応する経験を積むこと。

めちゃ簡単に表現したら、すべてをただの”色”のように見て生きるうちに培われる感覚だということだ…!世界のいかなる要素も、色のように観る。色に価値なんてないのと同じだと知ったままでこの世を経験する。

強者、弱者、
役に立つ人、立たない人、
産む人、産まない人、
結婚する人、しない人、
恋をする人、しない人、
使う人、使われる人、

それらの違いは、ただの色の違いと同じでしかない。桃色、緑色、水色、山吹色…と同じ。クソ当たり前なのだけれど、それらには価値の違いはない。それぞれがこの世というジグソーパズルのピースなのだから、重要度が完全に同じだということ。猫のジグソーパズルの背景の空の1ピースと猫の目の部分の1ピース、どちらが重要なのかを考えてみればいい。どちらが欠けてもそのパズルは完成しない。つまり、それらの重要度は完全に同じなのだ。

大富豪と貧しい人、この世界を完成させるのに必要なピースとして重要度が完全に同じ。だから、価値があるもないもない。価値という概念が落ちる。

それを頭でわかっているだけではなくて、そこから世界を見て、そこから現実を扱って生きていると、価値を見出す世界から脱却していられる。いい悪いじゃなくて、わたしにとってそれはとにかくそれが美しく見える。

強い、弱い、美しい、醜い、そういう違いをなにも否定しなくていい…なぜなら重要度は同じだから。という感覚で生きている人。カッコいいぜ。今の世界にはまだ、価値を追い求める価値観がはびこっているからさ。だからそこからの解脱は光って見える。

わたしは、この優劣を測るものさしの上に乗っかった世界にいながらにして、価値観のない世界に生きているかのごとく自由な人でいたい。頭がいい、実現力がある、実力がある、判断力がある、記憶力が高い…それらはそれ以上でも以下でもなく、決して人間の価値を決めるものではない。わたしは、自分に価値があるとなど思いたくもないのだ。自分以外の誰かにも。まだまだ、生きている間にチャレンジできることいっぱいですね。

というわけで今日は、ここ最近、自分に価値があると思いたいという人がたくさんいるんだなと思ったのでそのあたりについてのわたしの観点を書いてみました。うーん…あきらかに、自分と一部のレアな読者さましか楽しめない感じの記事だが…どなたか響き合える読者さまがいてくださりますよう!

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)