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1032/1096【世界に脱力する】所有を抜いた意識でものを観よう

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1032日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1032日目。これだけ毎日時間とエネルギーを注いできた毎日投稿だから、それを終えることが「筋トレをやめる」のと同じようなことだと感じられる。もう毎日やるのが当たり前になっているし、書かないとなまって気持ち悪い気もして、結局はパソコンに向かうだろうと思う。

やっと、ほんの少しだけれども文章を書くことに慣れはじめていたから、止めたくないだろうと思う。でも先のことはわからないな。毎日投稿が終わって毎日時間ができたら、一時は禁欲生活を終えて自由になった人のように、ハメを外しまくるのかも知れないし、暗いところから急に明るいところに出たばかりの人のように、慣れていなくてすぐには適応できず、これまでと同じように毎日朝からパソコンの前に座ってしまうのかも知れない。

あと少しで出所かあ…シャバの空気は美味いのかなあ…
この暮らしも残り64日だ。今日も模範囚目指してがんばります。

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昨日は、自分の幸せと他者の幸せとの境界線を無いものとして考えることについて書いてみました。メリットいっぱいです。

これの続きのようなものなのだけれど、今日は所有するということについても、似たような観点で書いてみたいと思います。

わたしは自分のものをいろいろと持っています。
たとえば、スマホ。パソコン。これらはいつもわたしだけが使っており、わたしが管理しています。それから、洋服。本や思い出の品。

でも、それらはわたしのものなのかと言われると、なんだかおかしな感じがします。わたしのもの、とはなんだろうと考えてしまいます。

所有するというのは、ある特定の有体物に対して、法令の制限内において、自由に使用、収益及び処分をする権利を有していること。これは簡単に言うと管理する権利がある、と言えると思うのですが、それは絶対的な意味での「わたしのもの」ではないですよね。人の世界での法令の制限を破ってしまうと、取り上げられてしまうものです。それはわたしのものなのではなく、預かったものだと言うこともできると思うのです。

わたしは最近数ヶ月をかけて8キロの増量に成功しましたが、それによりタイトになった服がいくつも出ました。すると、わたしよりもちょうどよく着られるものを、気に入れば娘が持っていきます。なんとなくそれは娘の服になります。それらの服は誰のものなのでしょうか。なんとなく所有する人がぼんやりしているものというのもありますね。

「自分のもの」とはなんでしょう。ひとつは「完全に自分の好きなようにできるもの」と考えることができます。自分の好きなようにできないのなら、自分のものではないと言えます。自由に扱うことができるものが、自分のものだということですね。しかしこう定義してしまうと、自分のものというのがどこにもないとわかります。わたしたちの好きにできるものなど、皆無なのですね。

たとえば家を例にとると、どんなにわたしたちが新しいままで保ちたいと思っても、外壁の色はくすみ、長年の間には壁のあちこちにヒビも入って、どんどん古くなってしまいます。車もそうですね。エンジンも消耗し、長年の間には錆びてきます。メンテナンスをしていても、いずれは動かなくなる時が来ます。どんなものも、完全に自分の好きなようにはできません。

わたしたちの身体もそうです。若く元気に保っていたいのですが、どうしたって老いて弱ってきて、いずれは死んでしまいます。この世のものは、わたしたちの思いに応えることなく、それをよそに止まることなく変化していってしまいます。なにもかもが、わたしたちのコントロールの及ばない、この自然界の法則のもとにあるものです。

こう考えたとき、では「自分の思い」となるとどうでしょうか。
これもまたわたしたちの支配下にあるものではなくて、勝手に変化してしまうものですね。今は緊張したくないと思っても緊張する。ここぞというときにやる気が出て欲しいと思っても怠けたくなる。一生楽しむと決意したものも、その思いとは裏腹に飽きてしまったりする。そんな命令を下したつもりはないのに、誰かを見た瞬間に一目惚れしたりもします。自分の思いですら、どうにもならないものです。

となると、身の回りの物も、自分の身体も、自分の思いも、なにひとつ自分のものではないということになってきますよね。わたしたちの感覚とはずいぶんかけ離れていて困ったこっちゃですが、でもこれが真実です。

これを踏まえて、日常生活を送ってみると面白いことに気がつきます。
どこにも自分のものなどないのだと思うと、あらゆるものが「ただの存在」に見えてきます。わたしたちの世界は、誰にも所有されていない存在たちにあふれているのです。

これは自分のもの、あれは誰かのもの、というふうに所有を意識してものを見ることがわたしたちにどれだけクセづいているか。このことを意識して周りの世界を見てみてください。所有を意識することを抜きにしてものを見ると、それぞれの存在がただそこに存在していることに対する、圧倒的なリスペクトが湧き上がってきます。わたしたちの支配の外側で、なぜそれはそこに存在しているのでしょう。

極端に大げさに言ってみると、別の知的生命体の暮らすまったく知らない惑星に行って、そこに存在しているあれこれを見たときに、わたしたちは誰のものなのかということがわかりませんよね。なのでまず最初は、そこにただ存在しているものとして見るはずです。誰が、なんの目的で作ったのか、誰が所有しているのかを知らないものというのは、それそのものが意思を持って、必然的にそこにあるかのように見えます。

目的や所有者を意識してものを見ることが癖になっているわたしたちにとって、それをまったく抜き去ってものを見ることは、なかなか難しいことです。けれども、本当はこの地球上のものだって、わたしたちのものなどではなく、ただそこにあるものです。わたしたちの生み出したものですら、わたしたちの支配の外にあるのです。

あらゆるものを、ここまで前提を抜いたところから見るとき、わたしたちは世界をより真実に近く見ることができます。自分のものがどこにもなく、どんなものも支配下にはなく、すべては純粋に存在している宇宙のクリエイションとして見る。

すると、わたしたちが普段持っている前提に対する、脱力が起こります。わかりやすく言うと、「誰かのものだ」と見ていたものが「ただのもの」になる。このとき、その所有の前提をもって見るのに、意外なほどたくさんのエネルギーを使っていたのがわかります。執着をすることって、とてもエネルギーを費やすものなのですね。

あらゆるものが、社会の法則を別にすると、本当は自分のものでもなければ、誰のものでもないのです。そこに、ただあるものなのです。

心がついてこないところもあると思いますが、いつもいつもそう思って世界を観ていると、わたしたちが「自分の身ひとつでここにいる」のがわかってきます。なにもかも自分のものではなく、わたしたちは、その中にぽつんと存在しています。

さらに脱してくると、こんどは自分の身すらも自分のものではなく、自分が「自分の観察眼ひとつでここにいる」のがわかるときがきます。なにもかもが、自然界のクリエイションによってこの宇宙に現れ、自然界の法則によって変化しながら、ただそこにある。あらゆる支配からも所有からも、わたしたちの勝手に見出す意味や目的からも自由な、わたしたちの手中になど無い、宇宙の構造物です。

まわりのすべてが、それだらけ。

ここまでくると、なんかなんだろ、はははもうなにもかもどうでもいいやァ~と思えてきますよね。力んで執着しているのが、ちょっと愚かしく思えるのです。クウッ…このフリーな、心地よい諦めに脱力した体感よ…!!この感覚は、なかなかにクールなものだと思いませんか。これも、この世を極楽に見るための、ひとつの観点です。よかったら、固まった物の見方を壊すアイデアとして使ってみてね。

というわけで今日は、あらゆるものを所有を抜いたところから見てみるという、わたしの好きな観点のシェアでございました。

それではまた、明日ね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)