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1007/1096【ワンネス】人生、その”たったひとつのシナリオ”

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1007日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1007日目。予約が入っていたため、朝から血液検査に行ってきた。わたしは血液検査が好きだ。病気の時も元気なときも、いつだって結果が楽しみだ。今回の結果はどうなるだろう!!

わたしは人体や病気に対して小さなころからやたらと興味を持っていた。骨や内臓の図を図鑑で穴が開くほど見てワクワクしていた。さまざまな病気の原因や症状について読むと、なぜか燃えた。大人になってからも、自分が風邪をひいたり、怪我をしたり、病気にかかったときに、一面では痛いし辛いと思うのだけれども、どこかでやはり面白いと思ってしまう。

それが育つ間に失われず、一時期にはネットで人間の死体を見まくっていたころがあった。ものすごいものをたくさん見た。子どもを生んでから何年かのあいだ、いかなる悲しいニュースも怪我も死体も暴力的映画も見ることができない時期があったけれども、それをのぞけば、わたしは基本的には食事をしながら遺体の写真を見ていられるタイプだ、、!

もちろんひとりの人間としての愛をもって見ているぶんには、亡くなり方によってものすごく胸が痛む。その人の安楽と成仏を願わずにいられないのだが、それとはまったく別の部分の知的好奇心では「皮下脂肪というのはこんな色をしているのだな」などと冷静に見ていて、子供のころの感覚がまったく変わっていないのを確認した。人間の身体は神秘的で、究極的に美しい。

病気の人間は、緊急事態や危機的状況時のための秘めたる特殊機能を発動している最中だ。それもまた美しい。人間にはいろんなアビリティが備わっている。それらは”素晴らしい”と表現するだけでは足りない、神が己を象って、己のクリエイティビティを限界まで注いで創造した究極の最高傑作としか言いようがないのを感じる。ひとつひとつの機能はいつだって統合された全体性を担っている。それは宇宙であり、悟りである、と思う。

自分がこの観点にあるときに、悩んでいる人にすら「そなたは美しい」と思ってしまう自分がいる。わたしはブスだから、わたしは足が短いから、わたしは肌が汚いから、わたしは頭が悪いから、わたしは色気がないから、わたしは自分を素晴らしいと思えないから、俺は勇気がないから、俺はお金がないから、恋人がいないから仕事ができないから人生がつまらないから空気が読めないから腹黒いから過去に失敗したから親が毒親だから、だから、だからなんだってんだよ。あなたはすごいすごいものだ。その傑作品をまるまるひとつ任された意識体だ。自分をなめんじゃねえ。と思ってしまう。

今朝は、針が抜けたらぷーっと血液が体外に出たのを見て、自分の身体は自分のものではないと胸いっぱいに思った。わたしはこんな真っ赤な液体を創った覚えはない。わたしは壇珠さんだが、壇珠さんを作ることはできない。この身体を生み出したり作り直したりできないのなら、これは一切わたしの思い通りにならないし、支配下にないものだ。つまりそう、”わたしのもの”などではないのである。ほんとうに”自分のもの”だとしたら、いくらでも自分の思いのとおりにできるはずだもの。

ああこれは、なにかによって創られ、わたしに憑かれることを許し、わたしに経験されることを許した、有機体地球生存可能モビルスーツではないのか。わたしと「生きる」というビジネスの契約を交わし、わたしひとりを選んで、わたしとともに生きることにしてくれた、自分への無償の愛そのものではないのか。

わたしの身体は、わたしひとりと結ばれていて、わたしひとりで満員御礼だ。こいつと一緒なら、ずっと切ない。ずっと愛してる。ずっとごめんね。おまえを老いさせ死に追いやりながら、お前のエネルギーと地上での耐久時間を利用して、この惑星で遊べることに、ずっとありがとう。

残り89日間を、この身体を借りてブログを書くことに、なんかもう、すげえごめんねすげえありがとう。勝手にさせてもらって、懺悔と感謝しかないよ。

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みなさんがもしも、自分の人生の筋書きを変えられないのだとしたら。
それはもう、撮影された映画のように。

あなたの人生はもう撮影された映画で、筋書きもセリフも決まっている。
この宇宙には、あなたの行動も感覚もなにもかも、起こることのすべてが、すでにプログラム済みなのだとしたら。

あなたはその「あなた主演」の映画を観て体験してみたかった。その映画は3Dでリアル体感つきだから、映画を観るには主演の人物の身体に入ってぜんぶを体験して味わうことになる。あなたはそのためにあなたになった。ただそれは、あまりにリアルすぎて、映画だということを忘れてしまう体験なのだとしたら。

もっと言えば、その3D体験を超リアルに味わうには、映画だと忘れていることが必要だということで、わざわざ忘れているだけなのだとしたら。

現在あなたが、まさにその映画を鑑賞中なのだと考えてみたら、あなたには自分の人生がどういうものとして観えてくるだろうか。たった今あなたがその人生を体験していることを、どう捉えるだろうか。もしも今までのすべてが神さまのシナリオどおりなのだとしたら、あなたはあなたの過去をどう見るだろうか、この世界をどう見るだろうか。こちらがそのシナリオを信頼しようがしまいが、その通りになっているだけなのだとしたら。あなたの今からの人生というものへの期待や予測を、どう捉え直すだろうか。
どうしよう?本当に今から、どう生きていこう?!

これを本当にマジに考えてみると、なんだかいい意味でも悪い意味でも、言葉は悪いけれども、自分の人生への抵抗がバカバカしくなってこないだろうか。なんだかもう、手綱を離してしまっていいと思えてしまわないだろうか。

なんのために自分を変えなくてはならないのだろう。
なんのために人生をコントロールしなくてはならないのだろう。
自分って、なんかダメなんだっけ?
なにが自分のせいなんだっけ。
なにが他人のせいなんだっけ。

と思わないだろうか。だったらこの映画を好きに楽しむ以外に、やることなんかないって気がしてこないだろうか。もうどうしようもないのだから、神さまの勝手にすりゃいい。なんか少なくとも、神とか宇宙とか、なんと呼べばいいのかわからんがそのシナリオを創ったすげえやつに、任せておけばいいという気がしてこないだろうか。

じゃあいいよ。任せるよ。ぜんぶ委ねるよ。煮るなり焼くなりコロ助なり、好きにしてくれやァ。と思ってしまわないだろうか。

もうこの、まさにあるがままの、この自分でいるしかない。他にやりようがない。これで良いも悪いもなくて、ただ自然界の自然物とおなじで、これこのままで完璧なのだと思うしかない。自分という映画、主演『自分』、原作・脚本・監督・スポンサー『神』ってさァ。それじゃあもう仕方がない。神に「なにか文句があるのかな?」って訊かれてもね。言えないよ。なんかもう抵抗する気なくなるじゃんな。

だって他の人のシナリオや、物質・非物質のなにもかものシナリオに組み込まれて、自分のシナリオもそれとのコラボレーションで同時に進んでいるわけだからさ。そう考えると、ほら、この宇宙の内側のなりゆきというものが、”””たったひとつのシナリオ”””に見えてこないだろうか。

「あるがままでいい」という感覚を、「自分のことを好きになろう」などというちまちました、大してうまくいきもしないようなアプローチからではなく、このくらいどっかんとぜんぶを諦めた感覚、降参した感覚、すべてを手放して委ねた感覚で捉えてみるとどうだろうか。

わたしはこれの解釈を拡大することに挑戦することが好きだった。結果、なにかが突出して図々しくなった。煮るなり焼くなりコロ助なり…!!なにもかも自分のせいじゃないし、ひとりひとりのせいじゃないし、なんなら自分を含め人類ぜんぶ連帯責任だし、同時に他人のことも自分のせいだぜ、そこに境界線なんてなかったぜ、なにもかもがこの宇宙ぜんぶの発案企画実行の俺たちの仕業だぜ。と、なんでもかんでもを宇宙ぜんぶの仕業と解釈してふてぶてしく生きている。

そうしてそこに自分がくつろいでみて、やっと掴むのだ。

ああ、それじゃあなにもかもが、自分の人生を支えてくれていたんだね。
ああ、自分は、誰かの人生を支えているんだね。

一生懸命に仕事をしていようとも、家でよっちゃんイカを食べていようとも、それでもわたしはこの宇宙という、なんかもう、「心のぜんぶを使ったってそのすごさも荘厳さもわかりきらないようなすごいもの」の、その計画の一部だったんだ。

そう思って、これほど図々しいのに、めちゃくちゃに謙虚になる。

そうして、図々しさと謙虚さとのあいだの、自分の一番心地の良いところを思いのままに選び直して生きられることを、わたしは自由に生きていると言えるのだと思う。

星よ、空よ、カナブンよ、花よ、草よ、鹿よ、木よ、猫よ、風よ。
あなた達と一緒に、わたしはこの壮大な計画の一部です。ちゃんと一部を担っているよ。ため息をついていたって、カップラーメンを食べていたって。いつだってすべてのものは、つねにコラボレーション中だ。

今日の皆さんも、ご苦労さまでした。
なにをって、宇宙の一部を担っていたこと、です。あざます!!

わたしたちはひとつだ。。。だからそこに、ほんの一瞬でもいいから寄りかかって安心してみてね。とても純粋に、この宇宙にくつろぐ方法です。この感覚をなんども思い返し、ちょっとずつ味わって、だんだん慣れていくことで、いつかあなたはこの真理とともにあるようになります。するとわたしたちは、自分の人生ー自分の主演映画を、安楽のもとに楽しめるようになるのですね。

というわけで、今日は人生を楽に見る意識の使い方のひとつの方法、よき知恵のシェアでございました。遠く離れたあなたと、響き合えますように!

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)