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703/1096【往復書簡】死んだらどうするんですか?死ねばいいと思います。

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で703日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

703日目。忙しい。どうしたものだろう。忙しい。しかも、ヤモリの手の平。自分のキャパが、ヤモリの手の平くらいしかない。キャパの狭いわたしにとって、今の状態は心が満タンになる少し前だ。危ないぞ。

この毎日投稿に加え、
◯オンラインサロン女塾
◯個人セッション
◯”じぶん”探求の会
◯秘行オンラインコースの準備
◯各単発イベントの準備・運営
◯動画コンテンツ企画の準備
◯事務作業

をこなしている。日本と時差のある中でこなしている。が、これにプラスしてわたしには時差のないこちらイタリアでのプライベートの生活もある。
やりたいくてやっているからほとんど摩擦なく自然と動いて自然とこなしているが、頭を介さずに自分が勝手に動いている感覚だ。拳法なのだろうか。もはやこれは拳法なのだろうか。そう思えてくる。わははは本当に!!

でもいい年をしたわたしは知っているのだ。これが、他の多くの人にとってみれば、何もしていないに等しいほど暇で楽であることを。たとえば朝から学校の授業を受けて夕方から塾に行って、眠るまで勉強している受験生に比べたら、鼻提灯みたいなものだ。毎日会社に行ってお仕事をしている人に比べたら、寝言言ってんじゃねえみたいなことなのだ。

だから毎日、そうした人を思って尊敬心を爆増させながら仕事をこなしている。すごいな、ありがたいことだ。これが、毎日投稿を心を込めて書こうと思ういちばんの動機だと思う。

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!非常に自分らしくないような自分らしいような気がしますが忙しい日々を送っております。忙しいと認識しようと思うと非常に忙しく、ほとんどニートじゃんと思おうとすればニートにしか思えない暮らしを送っております!!とくに気合を入れずともこなせるし、気がつけば夜になっていて、あ~今日も楽しかったなと思う安楽な日々であります。でも今の生活は、以前の自分がもしいきなりこなそうと思ったら死ぬやつです。

面白いことに、でも以前の暮らしは今の自分がいきなり戻ったとしたら、チャレンジしていなくて心が暇で死ぬやつです。耐えられません。同じ人なのに、人はどんどん変化していますね。以前の自分が別の人のようです。

厳密に考えると、人は常に常に変化していて一瞬前の自分さえももう今の自分とは違うので、そう考えると自分って常に別人ですよね。常に別人となっているということを、延々と並んだ少しずつ違う壇珠さんの肉体に毎瞬毎瞬、シュン!シュン!と魂が移動して入っているのだと思うと面白いです。

そのイメージでいくと、わたしたちは常に新しく用意された肉体に、入っちゃ捨てて入っちゃ捨てて生きています。わたしたちの肉体は、一瞬重なって使い捨てです。人生が、常に真新しい出会いと永遠の別れが起こり続けているように思えてきます。それをイメージしていると、出会いと別れはほぼ同時に起こることで、それら二極のことが、おなじ概念のように思えてきます。紐の端と端にあった二極のアイデアが、紐がつながって丸くなったときにはおなじ点で重なるのを感じます。

始めと終りとがある気がしていても、始まりゆくものと終わりゆくものとの間で、始まりと終わりが同時に火花のように本当に起こっている「今」だけがわたしたちのこの人生の現場なのだなと思います。だから「今」って時間の話のようで、時間の概念の抜け落ちる瞬間なのだから、時間でないのなら「瞬間」とすら書けないじゃないか、ほんじゃなんと書けばいいのだろうなどと思ったりしてしまいます。めんどくせーことウダウダとすみません!!なにが言いたいのかというと、こうしたことを、海にいるときに「なんとかしてあのライフセーバーにバレないようにここの貝を取れないだろうか…」などと真剣に考えているときと変わらぬテンションで考えて、「ぬおお神よ我に知恵を」などと思っている自分はアホみたいに暇人だということです。忙しいとか言っておきながら暇人です!!

何か新しいことに挑戦することの面白さの一つに、世界の見え方が変わる(自分の中に基準が増える)ことがあると思います。これまで、私はビルの屋上などに登ってもそんな想像をすることはまったくありませんでした。しかし、一回飛ぶという体験をすると、なんだか色々な場所を飛んでみたくなって「ここで飛んだらどうなるだろう??」と、世界の見え方が増えました。

これ本当にそうですよね!!わたしは以前、倉庫を自分の手で改築する際に、平面にいきなりコンクリートブロックを積んで自由な位置に壁をこしらえるという超快感を経験してから、コンクリートブロックを見るたびにいつも「これがあれば家を作れる」と思ってしまいます。コンクリートブロックが、とにかく家を作る材料に見えます。そして自分に超快感を起こす物体に見えます。でも、火曜サスペンスをいつもいつも見ている人は、あるいは本当に犯行に及んだ人は、もしかしたらあれが人を殺める鈍器に見えるのかもしれません。

わたしは、ひとりひとりの人がそうやって別々の体験から別々の世界観を持って生きていることに思いを巡らせるのが、心の底から好きです。わたしは、人は解り合えると思うのがぜんぜん好きではなくて、まったくわかり合えないと思うのが安心楽チンで大好きです。そこに冷たさとか寂しさとか悲しさとかを感じません。想像してくれるのが嬉しいのはわかるけれど、わかってもらえないのは完全に仕方なくて、仕方ないの極地だと思います。

わたしはわたしたちがわかり合えはしないことが、むしろどちらかというと気楽で楽しく思えてしまいます。わかんないじゃん。ふつーに。と思うのが好きです。わからないよね永遠に。方法ないじゃん。と思います。それによって「わかってくれるはず」という濁った惰性が消えると、この世がいきなり、超フレッシュ!!釣りたての魚くらい新鮮になります。

わかり合えはしないけれど、でもそれぞれの世界で響いた感じを表現に落とし込んだときに、その表現が互いを響かせ合うときには深く感動します。だから、わかってほしいとかわかってあげたいからという理由からではなく(そういうのをクソ喰らえだと思っています)、あなたに響け、この思い!!と願って、他者に向かってなにかをすることがあります。圭吾さんもそんな感じになることがありますか?!

たとえばツイッターを見ていると、子育てで苦労しているお母さんの「自分の苦労をわかってくれない夫に殺意を覚えている」というようなツイートをよく見かけますが、わたしはそれを見て、その考えでいるとめちゃくちゃ大変そうだなと思ってしまいます。ほんとうはただ協力したり想像したりしてもらいたいのだと思うのですが、その前に「わかってもらう」の工程が必須なのだと決め込んで信じてしまうと、それは永久に叶わぬ気がします。そしてそれを願うかぎり頭に来るし腹が立つしで、めちゃくちゃに辛い。これって一種の生き地獄だと思います。アタシも辛いんだから、アンタも辛くなれよ。苦しんでる姿見せろよ。わたし以上に苦しめ!!みたいなところまで発展すると、それは呪怨です。それを発するのはとても辛いものです。

相手は別の人なので、こちらの気持ちや感覚は永遠に経験できませんよね。その執着をバカみたいに諦めると、目の前にいきなり別の世界、別の宇宙が展開してきます。こちらの感覚はぜんっぜんわからんままでいいので、相手なりの想像や相手なりの経験による相手なりの感想を知りたい!という好奇心をこちらがフレッシュに持ち直して、そこから動いて響き合ってみたらいいのではないか!などと思います。そこに自らが心から興味を持たないとキツい。わかってほしいと思っていると、ホント辛いばっかりよね。みたいなことを思(っちま)います。余計なお世話なのだけれど、これを読んでくださったお方とそこで響き合いたいと思ったりしちゃいます。

でも、それもわたしが個人的に、妊娠~出産時に散々あらゆるところで「産んだあとはもっと大変なのよ!!」と言われていたけれど、意外にも「産んだあとのほうがはるかに楽だった」という経験をしているからなのだと思います。赤ちゃんと一緒のお母さんを見るたびについわたしは「もう最も辛い時を終えた」「産み落として楽になった」と反射的に見てしまいますが、人によっては「最悪の時間を過ごしている」と見えるのかも知れません。

人によって世界は違って見えている。だから良かれと思ってやることすらもどう思われるかわからない。わからないけれども響き合うことはできる。ということに気がついた状態から、いつも世界を見ていたいと思います!!

最近、魂の別名は好奇心なんじゃないのかなって思います。幸せと歓喜は似ているけれど違って、うまく言えないのですが「幸福はデフォルト。でも、歓喜にはアクションが必要」だと感じます。これをやったらどうなるのだろうとか、これをやったら自分は何を感じるのだろうとか、歓喜を察知するセンサーが好奇心で、それに従うとなにかしらのご褒美を得ることができる。幸せは心地よい温度の風呂みたいなもので、歓喜は「登山」とか「滝行」とか「バンジージャンプ」とか「熱湯風呂」とか「水風呂」みたいなイメージがあります。

これを読んだときに、ああ!そう見ることもできるなあ!と思いました。そこでひとつ考えてみたのです。自分が最も歓喜したときっていつだったろう?と。そうして思ったのが、人生には歓喜がありすぎて、順番はつけられないということでした。そして、中でもちょっと特殊だった経験について思い出しました。

それは、ある日自分が相模大野駅の駅構内を歩いていて、なにも理由などないのに、自分の平凡な境遇の平凡な楽しさにちょっと思いを持ったときに突然、雷に打たれたかのように強烈な感謝と多幸感に襲われたときのことです。それはそれはもうすごいものがあって、わたしのキャパを超えるほどの猛烈な幸福感で、全身がガタガタと震え、一歩も歩くことなどできなくなり、改札から数メートルのところで立ち尽くして、涙と鼻水を垂れ流して天を仰ぎました。あのとき、わたしには生まれてこの方、幸福でなかったときなど一瞬たりともなかったのだと気が付きました。あの経験は言わば強烈な歓喜でしたが、それは平々凡々な、なんの変哲もない幸福感からもたらされた、ガチで目の覚める経験でした。

だからもしかしたら、通常のわたしたちにとっては「幸福はデフォルトで、歓喜にはアクションが必要」なのだけれども、それをしているといつか歓喜にアクションがいらなくなってきて、デフォルトで備わっていた幸福自体があるとき最大の歓喜をもたらすのかも知れないなどと思いました。人生には、無数の喜びが地雷のように埋まっていますね!!やったぜ、俺たち!!

人生って私有地を広げる旅と言いますか、最初から全部私有地だったことを思い出す旅と言いますか、いきなり極端な話になりますが「なんだ、俺(私)は神様だったのだ」と自他共に徹頭徹尾叩き込む遊びだと思いました。

ここに同意をしなくては死ぬことができません!!ふと、「あたしゃ神さまじゃ」と「だいじょうぶだあ」を定番ギャグにしていた志村けんさんを思い出しました。どちらも素晴らしきセリフだと思います。

わたしたちってついつい法律上の概念をもってして、この地球上に自分の自由になる場所なんてほとんどない、と思ってしまいがちですよね。
でもわたくしめは、それは幻想で、ほとんどどこでも自由に入っていくことができるし、この地球上にあるものはほとんどなんでもわたしの好きにできると思っています。

保護区に指定されている場所などの制限を除き、わたしたちはどこにでも行くことができますよね!どこにでも入っていけます。ほとんどのものが、お金さえ出せば買うこともでき、買わずとも触ることができたり持って帰ってくることができます。草や花や木の実や土や昆虫やらをあちこちからもらってこられるし、服だって食べ物だって、お金を出せば食べたり使ったりできます。お金と交換しなければ、外のお店などにそのままあるだけですよね。

わたしは自分が短期間でもホームをレスしたときに、いきなり公園で眠るという選択肢にある意味感動しました。わたしたちって、いきなり公園で生活することができますよね。いきなり山で寝てもいいし、いきなりメキシコに行ってもいいし、いきなりタイに行ってもいいし、行った先でいきなり結婚してもいいし、自由にどこでも見て回ったりできるんですよね。

話がちょっとズレてしまいましたが、それとはまた別に、圭吾さんの仰るようにわたしも、生きるということを「どこでも私有地だということを思い出す旅」だと思います!!おおおお……!!(気迫)

わたしたちは、自分の意識を持って生きるかぎり、どこに行ってもそこが私有地なのだと思います。わたしたちがそこにいてなにを思うもどう感じるも自由だと知るとき、そこはわたしたちを開放する場所ですよね。どんな場所もが自分次第で天国にもなり地獄にもなりうる。自分次第でいかようにもなる場所のことを、私有地と呼ばずになんと呼びましょうか。

書類の上でその土地の権利を持っていようといまいと、そんなことは関係ないのだと思います。その土地を持った人が、そこにいて「ここをどう使おうか、いつ売りに出そうか」などと考えてしまって少しもリラックスできないのだとしたら、それはその人が所有していても、その人の私有地なのでしょうか。それでは逆にその場所に所有されていると言えるのだと思います!!
そのとき、そこを通りかかった人がその場所を眺めて、「ここはこちらから眺めてみると、とても美しいと言えるな」と新たな視点を得た人のほうが、ずっとその場所を自由に使ったのだと思います。

ひねくれものだからなのかなんなのか、私は「はい、ここは悲しむところですよ〜!」とか「はい、ここは幸せに感じるところですよ〜!」とされている場面で、素直に悲しめなかったり素直に幸せになれない自分がいます。なぜだか警戒をしてしまって「その手には乗らねえぞ」となり、俺は俺の悲しみを悲しみたい、俺は俺の喜びを喜びたい、俺は俺の死を死にたい、みたいなことを思います。
~中略~
みんながそれをそう思うからと言って、簡単に自分も「その通りだ」とは思いたくない部分があります。そんな自分を支えているものが意志であり、意志がある限り、どのような環境に置かれても「愛」や「自由」や「感謝」を感じとることができる。無職になろうが病気になろうが路上生活者になろうが天涯孤独の身になろうが、喜びを選びとることはできる。それが意志なのかなと思いました。油断をしているとあっという間に周囲に流されたり周囲に合わせてしまうことの多い人生ですが、負けたくないというマインドが私を生きる方向に駆り立てます。

わたしは女性だからなのか生まれつきのものなのか育つ過程で得たものなのかわかりませんが、サッと警戒をして「その手には乗らねえぞ」と思うことのできる機敏さがないのですが、でもめっちゃわかります!!
わたしの場合は、おや?気づけばみなと一緒だ!とか、およ?!気づけばみなと反対だ!!とあとから気がつく、というケースばかりです。警戒したときに自分がどう思うのかを知りたい気もしますが、いつもこうなってしまいます。

こう書くとえらく印象が悪い気がしますが、わたしはなんと言いますか、なにを選び取っても、ある意味どうでも良いと思ってしまっています。それが自分なので、もうぜんぶOKです。まずそれがベースにあるのですが、でもいつも、怖いとか心配だとか不安だとか思ったときには、あまり本格的に実生活上での対応をしません。予感として危ないぞ!と察知したときには対応しますが、嫌われちゃうかなどうしよう~とか、自分にできるのかな怖いなあ~とかいうもののうちほとんどを、あまり相手にしなくなりました。

もう、その怖がっているときの自分の言うことはいつもいつも嘘だったので、わたしの中でその自分がオオカミ少年のポジショニングとなっていて、あまり真面目に聴かなくてもいいみたいな感じになってしまっているのです。怖いときは本当に確かに怖いのですが、ちょうどホラー映画を見ているときみたいな感じです。どんなに怖れても、実際には貞子などがトイレやお風呂にいた試しがないので、実際の現実的な選択肢にまで影響させなくていいかなという感じです。もちろん、無防備で夜の山に入ったりはしないし、万が一そういう事になったら危機管理能力をマックスに設定して動きますが、圭吾さんの仰るように「無職になろうが病気になろうが路上生活者になろうが天涯孤独の身になろうが、」自分の感じることは、自動で起こった恐れの反応とは別に、自分で好きに選ばしてもらうぜ!と思います!!

やりたいことは絶対にやった方がいい。理由はうまく説明できないのだけれど、絶対にやった方がいい。今日やりたいことが、明日もやりたいことであるとは限らない。だから、今日やりたいことは、今日、やろう。やりたいと思う気持ちを諦めることは、やりたいと思う気持ちをなかったことにすることは、どうしようもなく悲しいことだと思います。どうしようもなくさみしいことだと思います。どれくらいさみしいことかと言うと「人は必ず死ぬのだから、愛する人に愛していると伝えても無駄だ」と思うことと同じくらい、さみしいことだと思います。死ぬからやらないのではなく、死ぬからやらなきゃ。自分の好きを諦めることは、生きることを諦めていることと同じだと思います。

わたしもそう思います!!最近は、「好きなことをしよう」「やりたいようにやろう」ということを「ポジティブな気持ちで、本当に好きだと感じられることをして、やりたいと感じることだけをやろう」という意味だと捉える人たちが、『それができなくたっていいじゃない理論』を展開しているのを見かけます。それが間違っているといいたいわけではないのですが、そもそも「好きなことをしよう、やりたいようにやろう」ということを、そんなにポジティブ信仰で見なくてもいいんじゃないの、と思います。

わたしは、好きなことをしよう、やりたいようにやろうということを、別段「本当に好きだと感じられることをする」だとか「やりたいと感じることだけをやる」みたいに解釈することを、極端だなとかバカみたいだなと思っています。そうじゃなくて、好きに失敗したり、それこそ好き度の低いことをやってみて「うわやっぱアカン!!」と思ったりする経験でもいいから、「好きにすれば?」「やりたいようにやれば?」ということだと思っています。圭吾さんはこのあたり、どう思われますか!?

だから圭吾さんの仰る、「今日やりたくても明日はどうなってるかわからんようなこと」を、するといいのだと思います。たまにそれで人生が失敗に終わったらどうするんですかと聴いてくる人がいるのですが、その恐怖の中にいる間も人生が紡がれていて、その恐怖が呼ぶのは、その恐怖の中にいるという体験そのままそれ、ではないのだろうかと思います。

好きにすることで結婚を逃したら、好きにすることで才能が発揮できなかったら、好きにすることで死んだら、どうするんですか。こんなに自分を蔑ろにした考え方があるでしょうか。好きにして楽しくして、結婚を逃せばいいし才能を発揮しなければいいし死ねばいいですよね。わたしは、嫌なようにすることでできる結婚、嫌なようにすることで発揮できる才能、嫌なようにすることで生きられる時間、どれも要らなくないですかと聞き返します。そして「いや要りますよ!」などと言われると、身勝手なわたしはほんじゃ俺に訊くなよ!勝手につまらない人生を歩んで死ねばいいだろ!と思ってしまいます。そして、そう思って生きるもまたその人の選択、その人の自由だよな、それもまた”好きに生きて”るってことだよな。と、思ってしまいます!!

いざという時に、逃げることしかできない自分を見ることは、死ぬことよりも苦しいことだと思います。どれだけ最善を尽くしたとしてもすべての後悔を避けることはできないものだと思いますが、できることならば「やれるだけのことはやった」と思いたい。ここぞという時に「やる」という道を選べる自分でありたい。さみしいことはしっかりとさみしいと思い、苦しいことはしっかりと苦しいと思い、悔しいことはしっかりと悔しいと思える自分でいたい。さみしさ、苦しさ、悔しさをしっかりと自覚することが、生きる喜びをしっかりと自覚することに繋がるのだと思います。

はい!!そう思います!!そう思いすぎてどう返答すればよいのかわからなくなっています!!わたしたちには、自分にとっての正解を選ぶ超正確なセンサーがあって、それが「なんかいいな」「楽しそうだな」「面白いな」「これを選ばないと後悔する気がする!!」という感覚でわたしたちに感じられているものだと思います。それを正解だとは信じられないというとき、生きることはどこかにあるはずだと思える正解を探す旅になるのだと思います。でも、どこにもない正解を探している人は、ちょうど”死にたくないから不死の薬を探している”のとおなじなのだと思うんです。その見つからないものを探して歩む旅がその人の人生になる。それもまた面白ければ一興ですが、つまらないのだとしたら「そんなものはないのだ」と認めなくてはならないですよね。

わたしたちの楽しみも幸福も、わたしたちが自ら創り出して感じないかぎりは存在しないも同然だと思うんです。つまり、それはわたしたちの”クリエイション”だと思うんです。創らなければ、存在しない。見つけるものではなくて、創ろうという姿勢が必要なのだと思います。そうすると、さて、じゃあなにをしてそれを創って感じようか?!と思えて、そうすると自分の感覚しか頼りになるものがないとわかるのだと思います!!

人は幸せを望んで生きているはずなのに、それを感じるには幸せだと感じることを選んではならないと思っている。なぜそのような不可能に挑戦するのかと思うんです。りんごの味を味わいたければ、わたしはりんごを食べます。めっちゃ単純にりんごを食べます。ところが、りんごの味を味わいたいけどりんごを選んでりんごの味がしないと怖いので、オレンジを食べます、みたいなことを言う人がいるんですよね。

楽しく生きたいのであれば、楽しいことをしていいのだと恐ろしく単純にそう思います!!単細胞です!!

聖人業界ナンバーワンの汚物である小生は汚物業界ナンバーワンの聖人でもあります。ありがとうございます。そういうことなのです。自分で決めているのです。本日も輝いております。キラキラです。今日もキラキラ。明日もキラキラ。キラッキラで、キメッキメ。汚物のおぶっちゃんでございます。

ここで爆笑しました!!ありがとうございます!!
そうほんとうに、自分で決めているんですよね!!決めていいのだと気がついた時のわたくしめの狂喜ときたら、ものすごいものがありました。
わたしも汚物業界に進出したつもりでいるのですが、まだまだ汚物界でも小物の中途半端なやつです。しかし、自分ではこれが自分で、これでいいのだと思いつつ、どんなに変化してもこれで良いと決めております!!

われわれがこの汚物書簡を書いていられることが、いえ、わたくしめが書いていられることが、書きながら奇跡だと思えて笑いと涙が一緒に湧いてまいります。圭吾さんのことが好きすぎます。汚物の感謝ですが、勝手に送らせていただきます!!ありがとうございます!!汚物より かしこ

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