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610/1096 お化けを怖がらなくなった理由

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で610日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

610日目、600日台も10%が過ぎてしまった。早いのか遅いのか、それもよくわからない感じがする。

今の感覚だと、自分は三日坊主にも三日坊主でない人にもなれる、という感じがあって、もう自分を「わたしはこちら側です」と、どちらかに固定することがまったくできなくなってしまった。わたしは三日坊主だという絶対的な、そしてロクでもない自信があったのに、もうそれは粉々に砕けてしまった。そしてそこにムクムクと湧き上がってきたのは、人には解けない思い込みはないという感覚だ。。これはとても嬉しいようなワクワクするような、新しい冒険のフィールドがいくらでもあるというような、いい気分だ!

死ぬまでずっと、自分の感覚が単なる思い込みからくるものだったと気づいた時の「ああーこれすらも自分の思い込みじゃないか、くーっやられた~」という喜びを、味わうことができるのだ!いいないいな、人間っていいな~

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今日は、思いついてしまったので、恐る恐るながらある意味ちょっと罰当たりなことを書いてみようと思う・・・大丈夫かな、怖い・・・

みなさんは、怖がりさんだろうか。わたしは子供のころ、人一倍怖がりだった。とにかく幽霊が異様に怖かった。

怖いことを考えてしまうと、夜ひとりでトイレに行くのすらも肝試しレベルで怖くて、ほとんど拷問だったのを覚えている。もし後ろに誰かが立っているのがわかったら・・・もしそれが髪をかぶった女だったら・・・もし窓からなにかが覗いていたら・・それがのっぺらぼうだったら・・・もしドアが開かなくなっていたら・・・ドアの向こうから女の子の笑い声が聴こえてきたら・・・それらは自分になんの用があるのだろう、どう考えたって絶対にいい用事なんかじゃないし、ただただ生きているものへの恨めしさで呪いに来ているに違いないんだ・・・などと考えると、もう恐怖のあまり生きた心地がしなかったのだ。

それがいい大人になっても続いていて、お化け屋敷に入ると目を開けることができず、誰かにしがみついてただ出口に出るまで怯えきって化粧をぐちゃぐちゃに崩しながら進むことしかできず、家では前夫に一緒にトイレまでついて来てもらったりしていた。とにかくお化けが怖かった。

しかしいつの間にかわたしはそこまでの怖がりではなくなっていた。今日はそのことについて考えていて、気がついたことがある。

自分が幽霊が怖かったのは、

◯得体の知れない存在だから
◯恨みや怨念や心残りなどの負の感情があって、それで誰彼構わず呪ったり怒ったりわかってもらおうとする気がするから
◯寿命を奪ったり呪い殺したりできそうだから

と、ざっとまあこんな感じだったのだけれど、これもシンプルにまとめてみると、彼らと話し合いができない、つまり幽霊とのコミュニケーションの欠如が原因のように思う。だからまず、幽霊が話し合い可能なのであれば、さほどに怖くはないと思うのだ。

しかし今日書きたかったのはそんなことではなくて、自分が幽霊を以前のように恐れなくなった理由だ。それがなにかと言うと、そもそも幽霊が成仏できずにいるのだとすると、その理由はなにかしら彼らが彼ら自身を哀れんでいるからだと言えると思うのだが、それはちょっと、可愛いことでもあると感じてしまったから、なのだ。

めちゃめちゃ可愛く言ってみると、

あのとき辛かったの。
めっっっっちゃ悔しかったの。
ほんとにほんとに寂しかったの。
信じられないくらい怖かったの。
しゅごく苦しかったの!!!!

ということだ・・・そして、それを解消できずにいて、こだわっちゃって切り替えられずにいて、

わかってもらいたいよぅ・・・誰か慰めてよぅ・・・・と思っているのだと考えると、可愛い気がしてしまうのだ。自分がいつの間にか幽霊をそんなふうに思っていて、以前のようには怖くなくなっていたのだと気がついたのである。

そしてわたしは、これを書くのにちょっと勇気がいるのだけれど、同じような思いを「哀愁漂う男性」にも抱いてしまっている。背中から哀愁を漂わせて暮れる夕陽に背を向けている男性・・言えない過去があり、いつも気持ちを外に出さず、人の輪に入らず・・みたいな。。昔はドラマや漫画で見ても近寄りがたい感じがしていたものだった・・・そしてめっちゃかっこよくも見えていた。

けれども今は自分になにか怖いくらいの余裕ができてしまって、そんな人を見たときに「あやま!なにか辛いことがあって、そのことにガッツリと心を支配されちゃってるんでしゅか」と思ってしまうのだ!!

嫌だ・・なんかこんな人、嫌ではないだろうか、、せっかく悲しみに身を預けてそれに浸ってちょっとカッコイイ感じになっているというのに、「辛かったでしゅか」などと思われたくないじゃないか!!とも思うのに、「拗ねてるんだなあ」「こじれてるんだなあ」「切り替えられないんだなあ」「可愛いなあ」などと思ってしまう自分がいるのである。

だから、無口で哀愁漂う男性が居たり、悲しそうな幽霊が居たりしても、
「そんなに悲しいのだね、そこ切り替わらんのね(微笑み)」と思ってしまうので、困ったり怖いと感じたり、しなくなってしまったのだ。

自分がどうしてこうなったのかと言うと、秘行(自意識に囚われずに自分を見る行法)を続けていて、自分に対してもそう思うからだ。

哀愁漂う人のことを「悲しいのね、切り替わらないのね」と余裕で見ておきながらアレなのだけど、自分もガッカリしたり罪悪感に襲われることなどは日常的にあって、でもそれを「ガッカリしたね、そうでしゅね」「自分が悪い気がしちゃうもんね、うんうん♥」と微笑ましく見てしまうと、心に余裕が生まれてきて、自分にあまり囚われずに済むようになった。これを何に対しても思うようになったからなのだと思う。

見方によってはちょっと冷たい人のようだけれど、でもこの余裕があると自分の悲しみに対しても余裕を持つことができる。そしてまた、余裕を失って誰かを否定することが減るのも嬉しいことで、なによりいいのは幽霊が怖くなくなってくることだ。(笑)

というわけで今日は、わたしが幽霊をあまり恐れなくなったのも、自分の感情を恐れなくなったからでした、という経験のシェアでございました。

それではまた、明日ね!!

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