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【往復書簡】娑婆ってもんはな、バランスでできてんだよ。

上の圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さんおはようございます!上の記事のあちこちで爆笑しました。キャノーラ油のワードが出る箇所すべてで爆笑しました。圭吾さんからお返事が来ると、爆笑によりどんな憂いも吹き飛んで元気になります。わたくしめは先日、M-1の2019年のグランプリで優勝ネタとなったミルクボーイの『コーンフレーク』というタイトルの漫才を、ホクホクと期待しながら見ました。もちろん斜に構えてなどおらず、笑う気満々でした。

が、漫才が始まってから終わるまで、上まぶたがまっすぐ真横に半眼を作ったまま、クスリとも笑うことができずに見終わりました。これにより、わたしは、世間と自分とは何かが大きく違っているのだと思いました。そんなわたしですが、圭吾さんの書いてくださるお返事には爆笑します。なぜなのでしょう!!ちなみに、自分で書いたものにも頻繁に爆笑してしまいます!!

壇珠さんは、ご自身を潔癖症だと思うことはありますか??小生、今日、付き合いで携帯ショップに足を運びました。私は携帯ショップや市役所や大型ショッピングセンターが死ぬほど嫌いなのですが、どれくらい嫌いかと言うと「バンパイアにとってのニンニク」くらい嫌いです。生理的に無理なのですが、なぜ無理なのかを知りたいと願う探究心もあるものですから、行ってきました!!今日!!携帯ショップに!!そして見事に死んできました!!

潔癖症だと思うこと、あります。わたしは電車に乗ることが恐ろしく嫌いです。どれくらい嫌いかと言うと、電車内の物に触ることすらも苦痛で、ちり紙などを介してでなければ触りたくないうえ、乗ってしまうと途端に失神するように睡眠に入ってしまうほどです。そして打率10割で乗り降りを間違います。その際に助けを求めると半数の割合でドン引きされ、楽しい思いをすることがありません。見たくないし触りたくありません。なんというか、電車のシステムのすべてが、自分仕様でないので苦痛です。それから、学校と市役所と警察が嫌いです。意味不明に警官を呪ってしまいます。道を歩いていて、警官が数百メートル先にいるのを見つけると、進行方向を変えます。別になにも悪いことなどしていないのに、わたしがあまりにも限りなく犯罪者に近い市民であるため、警官と鉢合わせたらまず真っ先に誤解を受け、牢獄にぶち込まれ、獄死する気がしてしまうのです。警官を見ると理由もなく許せなくてワナワナしてきます。わたしはこんなことを多くの人の読むものに書いてしまったので、警察官侮辱罪で捕まるのでしょうか。しかし、捕まるのだとしても書きたいと思います。警察官が死ぬほど嫌いです。これで投獄された場合、よかったら面会に来てください!!おねしゃす!!

市役所に行っても、死のガスが蔓延していることを感じます。なぜなら、なぜか市役所で対応してくださる方たちが死んだ目をしていることが多いからです。わたしは親類に役所で働く者がいるのですが、正直なところ業務は恐ろしくつまらないそうで、人生は退屈との闘いであるということでした。なぜそんな思いをする人がいなければ成り立たない社会なのでしょうか。楽しく仕事をしている人もいるのかもしれませんが、わたしは偏見を持って勝手に退屈しているのだろうと思い込み、彼らに対する申し訳無さと怒りが湧いてきたりして、役所に居るだけで自分の狂人部分が暴れて震えます。市役所に乗り込み、銃で脅してお金を渡して辞職を迫る日も近いかもしれません。こんな事書いて大丈夫でしょうか。たまに自分のジョークは圭吾さん以外の誰にも通じていない気がして怖いです。

私は、奇跡的に現在なんとか生きることができていますが、求人情報誌を見ても働きたいと思う仕事なんてひとつもありません。全部が地獄に見えます。

わたしもです!!とあまりにも力んで言ったために内臓が外に出ました!!
万が一求人誌に「大工 見習い 性別不問、必要資格:気合い」みたいな求人を見つけたとしたらやってみたい気もするかと思いますが、それ以外のすべての求人情報にはピーーーと自分の脳波の停止する効果が認められます。

わたしは人を時間給で使うことに恐ろしさを感じます。その「生きる時間を費やした代償に一定額のお金をあげよう」という発想がとても怖いです。代償、というのが怖いです。老化と引き換えにお金をあげようと言われているみたいでゾッとします。そんなお金こそ、黒いお金なのかもしれません。命と引換えにしたお金です、悪魔の金です!!

できることなら働く人に「どれだけ面白みを感じているのかを測るセンサー」をくっつけて、面白かった分だけ報酬を渡すことができたらいいのになどとと思ってしまいます。すると、働く人は否が応でも面白みのある仕事を探すと思います。わたしは意外とルーティンワークが好きで、ずっとレンガを積んだりずっと編み物をしたりするのが好きです。

長時間同じ動作をしていると、人の心は砂絵を描いて修行する仏僧のように、逆に肉体の囚われから心が飛び立つ時があって、とても面白いのです。自分が仕事をしなくてはならなくなったとしたら、思いっきりルーティンな仕事を選び、「白目になってたら起こして」と同僚に頼み、あとは作業中に身体の制限を突破しようとしてみます!!うおおいいかもしんない!!

私が「邪魔だババア」と言う。すると、おそらくババアは顔を真っ赤にして怒る。あなたいまなんて言ったのよ。私は「邪魔だババアと言いました」と、丁寧に伝える。この時、私としては「俺は俺の好きなようにやる。だから、お前も『黙れ小僧』とか言っていいんだよ」的な気持ちで、真実を告げる。俺を殴ってくれても構わない。殴られたとしても「いいパンチをもっているじゃねえか、ババア」と、私はほくそ笑むことができると思ったのです。清々しい気持ちになれると思ったのです。
お互いに我慢を続けるより、思い切りやり合った方が後腐れがなくていいな、もしかしたらものすごく仲良くなれるのかもしれないななどと思いました。ババアと思うことを禁じるより、ババアと思っている自分を認める。それだけでも随分楽に(そして楽しく)なりました。ババアに「お前はババアだ!どーん!」と、真実を告げる瞬間は近いかもしれません。

たしかに思い切りやりあったほうが仲良くなれる気がしますね!!逆に言うと、思ったことを言わないでいてあげることで、仲良くなるチャンスは失われるとも言えると思います。思ったままを言い合うと、もしかしたら互いに大嫌いになるのかもしれないけれど、ほんとうに気を使わないめちゃんこ仲の良い相手となる可能性も生まれてきます。天国か地獄か、みたいな流動性が生まれます。が、黙っておくとその可能性がなくなってしまいます。

今の社会って、思ったことを言うな。思うだけにしろ。他者が嫌がることは言わないで暮らせ。というのがほとんどルール化していますよね。そのために、社会に「人ってニコニコしていても腹ではなにを思っているかわからない」という不信感が蔓延している気がします。禁じれば禁じるほど、人ってその思いを強めてしまうと思うんです。人々は疑心にまみれています。

顔では笑っていろ。我慢して丸く納めろ。悪いことは言うな。怒るな。叫ぶな。異を唱えるな。そうやって禁じるほどコソコソやる人が出てくるので、陰湿なことが水面下で行われるくらいなら、「このクソババア!!」と言って「お前こそクソ野郎だろ!!」と言い合ってしまうほうが、言葉は悪くとも気分がいいじゃないかという感覚がとても良くわかります。

このままいくと、「いくら芸人でも他人に対して思いっきりテレビで「アホちゃうか!」と言ったらダメでしょう」という輩が出てきて、「そうだそうだ、そんなものを子どもに見せるわけにはいかない、悪い手本すぎる」と言いだす賛同者もわんさか出てきて、お笑い芸人がテレビで漫才なんかできなくなる日が来そうです。恐ろしい世の中です。

わたしは別にそれでミルクボーイが見られなくても構いませんが、お笑い界がなくなってしまうのは嫌です。アレもだめコレもだめと言っていると、ついには話せなくなる日が来るぞ!!全員口にバッテンを描いてミッフィーになる時が来るぞ!!と思うことがあります。しかしそうやって禁じる方向に進んでいくとパンパンに圧力が高まって、いずれ爆発する気がします。なぜって、そんなに人類の心が悟りの平安に達しているわけではないから、「偽りの姿を演じなさい」と言っていると、どこかで嘘の代償が出てくると思うからです。嘘って、たとえいい嘘でもやっぱりストレスなんですよね。

わたしと圭吾さんは、そこで少しでもガス抜きをして、言っちゃヤバいことを言う存在でありたいですね!!社会のガス抜きをしましょう!!オナラです!!屁です!!我々は社会の屁です!!狂人書簡が、いよいよ放屁書簡となってまいりました!!

美しい風景に触れたとき、美しい音楽に触れたとき、その対象だけではなく「それがある世界全体を美しいと思う」こともあります。この時は、おそらく、汚水タンクも美しいに含まれているのだと思います。この時は超絶気分がいいです。世界全体が楽園みたいに思えて、ああ、生きているって素晴らしいことだぜと小躍りをしたくなるような気分です。ただ、壇珠さんがおっしゃる通り「美の概念がない」状態も存在をしていて、音楽を通じて「美しいわけでもないしメロディアスな訳でもないのに、どうしようもない衝撃に襲われた」みたいな感覚になることがあります。このとき、一回、あらゆる概念が消え去り、宇宙に放り出されたような心許なさを感じることがあります。あるのに、ない。ないのに、ある。これはもう美しいとかそういうことより『カオス』みたいなもので、一回、ぶっ壊れます。

汚水タンクも美しいに含まれているのって、好きな人の何もかもが好きみたいなのに近い気がします!!わたしは好きな人のことは、もうどの部分も何もかも好きになります。好きな相手のことは、シワだろうとケツ毛だろうとぜんぶが美しく見えます。人はそれほど誰かに恋したときって、世界が薔薇色に見えると表現したりしますが、世界に恋したときは、まさに圭吾さんのおっしゃるように世界全体が楽園に見えるのだと思います!!

だから、こんなことを言うとヤバいのかもしれませんが、放屁係として言ってみたいのですが、悪い人のことも、社会の美しい部分だと思ってしまうんです。好きな人のケツ毛みたいなものです。そうやって、ケツ毛を担ってくれた人、汚水タンクの役割を担ってくれた人を、排除しようとするからおかしくなるんだと思います。

だから、そういう人を責めて禁じて追い込むのではなくて、寄ってたかって愛せばいいんじゃないかと思ってしまうんです。たとえば「みんな死んじゃえばいい!」と言った人に対し、「そういうことを言うのはやめてください、迷惑です!」「死んでいい人なんかいません!やめてください!!」などと言うと、言うのを我慢させられたその人は、ある日本当に「みんな死んじゃえばいい」と思い始めるだろうなと思うんです。そうじゃなくて、「どうしたお前!なんかあったんか!」と言えばいい。不快な相手こそ助けようと思ってもいいじゃないかなどと思ったりします。

たとえば障がいのある人をけなしちゃう人もそうです。いじめや差別をしちゃう人もそうです。そういう人に対して、アンタ頭おかしいよ、やめろよ、消えろよ、黙ってろよ、と伝えて抑えて、なにか解決してるのかなと思ってしまいます。悪い部分は手術で取り除く西洋医学的発想という気がします。そんなふうに誰かを傷つけるという寂しい状態にあるということは、なにか原因があってのことだと思います。なにか手伝うことがあるのではないかなどと思います。悪口言いたいじゃん。罵って怒りたいじゃん。愚痴って荒らしたいじゃん。あたいにはわかるぜ!!そういう人のその歪み、その荒み、劣等感、無価値感って、それ相当の理由あってのことなんだぜ?!それに対して、いい子ぶれってどういう要求だよ??と思います。

世の中は、心のきれいな人ばかりがのさばって快適に生きられる場所だと思ったら大間違いだぜ、上から目線の心のきれいな人たちさんよ。

娑婆ってもんはな、バランスでできてんだよ。アンタたちが「わたしたちは誰も傷つけません、光り輝いてます~」ってやってる間、どこかでそのぶん、闇を担当してくれている者たちがいる。俺みたいな屁もいるんだって忘れちゃならねえぜ。俺は電車も市役所も警察も嫌いな、求人情報で脳波が止まるひねくれてやさぐれた屁さ!!と思います!!いやっほう~~!!

小生、貧乏性が顔を出してペットボトルの醤油を成城石井の醤油瓶に移し替える詐欺行為を働きました!!年齢詐称をする女性の気持ちがわかりました!!ラベルって大事ですね!!ラベルというかテンションがあがるかどうかが大事ですね!!

わたくしめは、ペットボトルの醤油は、成城石井の醤油瓶に移し替えてしまえば成城石井の醤油になるのだと本気で思います!!そういう目で見れば、こちらがそういう波動を持ってして見れば、それは成城石井の醤油です!!大丈夫です、成分も成城石井の醤油です!!本当です本当です!!そう思えばいいだけですよね!視覚的にラベルに騙されてついついいい感じに思いながら使えば、その醤油のもたらす効果は成城石井の醤油と完全に同じです!でなければ、プラシーボ効果というものを説明できなくなってしまいます!

たとえばホームレスの男性に、きれいに散髪して立派なスーツを着せてあげることが社会復帰の大きな助けとなるという記事を読んだことがあります。きちんとした身なりをさせてもらったことで、自己評価が上がり、意欲的になって、社会復帰を果たす事ができるようになるのだそうです。これもラベルさえ変わってしまえば成城石井の醤油になってしまうのと同じで、そういう格好をすると中身もそうなってしまうのだということなのだと思います。これも、先日ここに取り上げた、一発ワープですよね!

我々も、社会の片ケツを上げさせる放屁書簡で、誰かの心に火のつくプラシーボ効果を狙っていきたいですね!!これを読んでつい熱い気になってしまい、その熱さでついついほんとうに体温が上がり、アドレナリンまでが分泌され、それを繰り返すうちに思わず自分が熱いやつなんだという気がして熱い行動に出てしまうような、そんなプラシーボ効果付きの危ない放屁書簡でありたいです。それでも熱くならない人はどうすればいいかって?そんなときは、自分を取り囲む要らない服や日用品を全部空き地にまとめてキャノーラ油をかけて火をつけ、焚き火にしてあたってくりゃいいのさ!!身体は温まり、心は最高に清涼だぜ!!ありがとうございます!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)