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695/1096【往復書簡】自分を笑えなきゃ、一生仏頂面

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で695日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

695日目。暑い。なんだこの夜なのにとんでもなく熱い空気は。そしてなんだろう、このもはや1096日を達成できる可能性のほうが高いかのような空気は。そろそろ700日が叶うのなら、なんかもう、そのままいけちゃうんじゃ…?みたいな感じがする。

自分の人生経験上、こういうときに調子に乗ると危ない。いい感じがしてきたときに「あ来たわ!勝ったわ!勝ったっしょこれ!」的な単独フィーバーを起こすことで、油断的なものが大敵的なものを呼んできてうっそみたいなケアレスミスなどが起こり、それまでの良い過程をダメにしてしまうのだ。
気をつけろ。ここでとにかく締まっていかねばならない。

さらにここで大事なのは、兜の緒を締めようとして、締めすぎて首を絞めてしまわないこと。なんでもそう。”続けられそうな楽さ”と”挑戦の面白さ”が適当に配分されていなければどこかでしわ寄せが来る。

その、適当でちょうどいい取り組みを自分に課してこなすのことのできる程度には、自分を知り、乗りこなせる人を、大人というのかも知れない。

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!土曜の朝、晴れたヴェネツィアでこれを書いております!これを優雅と思うも思わぬも自分次第ですが、わたしはどこに行っても優雅だとか優雅じゃないとか思わない方で、その場所に自分がいる、と感じるばかりです。有楽町のコンビニに居ても、ヴェネツィアのカッフェに居ても、ドイツのギリシャ料理のレストランに居ても、スペインのバレンシアのバールに居ても、町田の焼肉屋に居ても、どの場所も面白く、自分がずっと自分だけを感じているという「自分が居る感」とともにあり続けています。圭吾さんにも、こんな感覚ってありますか?

場所によって壇珠さんの気分が変わることはありますが、どこかになにかの状況で居れば優雅、そうでないときは優雅ではないなどと考えることがほぼありません。ヴェネツィアにいると言うと「優雅ですね」と言っていただくことがあって、それはその人の感覚だからとても良いと思うし素直に嬉しいのですが、自分なりの感覚を正確に表すと「自分が自分を通して外界を感じている以上(=生きてさえいれば)ほとんどどこにいてもずっと優雅」だと感じます。

ただ、そんなわたくしめにも優雅だと感じられなくなるヘイトスポットがあって、そのひとつが公共交通機関です。わたしは電車やバスが苦手で、こんなことをここに書いてはいけない気やめっちゃ嫌われる気が十分にしつつも果敢に書いてみようと思いますが、個人的な好みの問題で、フケいっぱい頭の脂いっぱいの、爪を噛んで食べていたり鼻をホジホジしてその指をなめたりしている、恐ろしいほどロリコンなアニメやゲームに周囲を忘れて没頭している、わたしから見て非常に不潔で異様なぶっっっっっさいくな、見るだけで鳥肌が立ってくるオタク風男性が乗っていると気色が悪すぎて電車内やバス内のどこにも触ることができなくなるため、そんな心の狭い自分が居てはいけない場所だと感じます。このご時世、人のことをブスだと言うと怒られるのは重々承知なのですが、いくらでも言ってやります。ブスはブスです。もちろん、生まれつきの造形のことを言っているのではありません。とにかく在りかたがブス。存在感がブス。オーラがブス。それをキモがっているときの自分の不機嫌もブスです。ああ、こう言えるってほんとうに爽やかです。

彼らがアニメなどに没頭しているがために目の前に立ったご老婦に席も譲らずにいるのを見ると、そんな爆乳のミニスカートの小学生みたいな架空の女の子をタップしたときのダメでしゅ~ご主人さまあ~みたいな反応を糞ブスな薄ら笑いとともに血走った目で見ていないで、目の前にある現実世界を見ろと思ってしまいます。なのに、「自分が彼らと仲間で、自分にも彼らと同じところがある」とひしひしと感じます。うおおおお書いてしまった!!

もちろんわたしが電車などを利用しなければ良いことなので極力利用しないようにしていますが、こういうことがあるので閉じられた狭苦しい公共の場が大嫌いです。公共の場が嫌い、っていうこちらのほうが病気かもしれませんが、嫌なものは嫌です。

こういうことを書くと正論を掲げて猛烈に反論してくる人がいそうですが、なにを言われてもわたしがそれらをキモいと感じる感性は変わらないので無駄です。どこかで彼らが外に目を向けられるくらいに成長して、シャンプーと席を譲ることができるようになってから電車に乗ればいいのにと思う気持ちは変わりません。またこれもあくまでもわたし個人の見聞でしかないのですが、イタリアに来てから一人たりともそういう「フケ・脂・鼻ホジor爪食べ・ロリコン趣味」なイタリア人男性に会ったことがありません。それを思うとやはりその不潔ロリコンたちと自分が仲間に思え、一日本人として恥ずかしい気にもなります。

このため日本の電車以外の場所はどこでも優雅な気がします。こうして自分の思うことをそのまま言える場も優雅だと思います。こんな優雅な往復書簡という自由な私有地をくださった圭吾さんに感謝しております。ありがとうございます!!

良くも悪くも「本物か、偽物か」みたいなものが直に迫ってきて、残酷な感想を抱きます。この人には惹かれるけれど、この人には全然惹かれない。懸命に努力するだけでは決して超えられない壁のようなものを感じ、なにが本物と偽物を分けるのか、とても考えさせられました。「みんな違ってみんないい」なんて言葉もありますが、全然、違う。いいと思う人もいれば、全然いいと思わない人もいる。この、残酷な差がエグいです。

わたしも「みんな違ってみんないい」と言われて「ああそうだな、正論だな、そう思わなきゃならないな」と盲目的に思うことのいかに無駄かを思います。わたしたちって残酷ですよね。嫌なものは嫌だし、ダメなものはダメだと思います。

もちろん公的な意見としては、わたしだって不潔だろうと清潔だろうと人間の価値に一切の差はないと感じる自分の感覚について伝えようとします。本物だろうと偽物だろうと、ロリコンだろうとそうでなかろうと、そんなものはどうでもいいです。むしろ、しょーもなく存在感がブサイクな人こそ愛しいと感じます。人間はそんなところも含めて可愛いと思います。でも、その層だけを持っているわけではないのです。わたしたちには、嫌なものは嫌だと感じる層もありますよね。その層を消そうと頑張るのは無駄だと思います。あるものはありますよね。そういう自分を消してあるがままの自分を愛したいっていう人がいますが、消したらあるがままじゃないじゃん。それそのままでいいってことじゃないのか!!と思うことがよくあります。

どれだけ周囲からボロクソに言われても、お前は間違っていると後ろ指を指されても、極めて真っ直ぐに「だって好きなんだもん」と言える瞬間は爽快です。惚れっぷりと言えばいいのでしょうか、惚れっぷりのよい人は素敵です。愛するとか、許すとか、執着しないとか、そんな問題につまづいている時点で「惚れっぷりが足りない」のではと思います。言葉は乱暴ですが、自分が勝手に惚れたのだから、死んでも被害者面をしちゃあならねえよと思います。

本当にわたしたちには「自分の感じること」しかないですよね!!一生、それだけを感じて、それだけを持って、それだけと共に生きていると言えますよね。それ以外のことが、まったくないということを思うだけで、自分の世界には自分しか居ないのだなと思います。

「だって好きなんだもん」を、どれほど周囲から批判されても言えるようになるためには、対極にある「だって嫌いなんだもん」を自分の中に認めるときだと思います。好きなものがないという人は、「好き」を許していない人なのかもしれません。そういう人は、「嫌い」をも許していないと思うんです。なにかを思いっきり嫌うことを自分に許していない人は、他の事象と比べてなにかを思いっきり好くこと、惚れ込むことを許せないのだと思います。それはひいては、自分がなにかに思いっきり嫌われることを恐れているのではないでしょうか。自分が嫌われるのが怖いから、自分がなにかを嫌ったり好いたりすることを禁じているのではないでしょうか。

世間ではよく「比べるな」ということが言われますが、それは他者と自分を比べるなということであって、自分の中に好き嫌いがあることを認めないというのとは違うと思います。でも、そこがごっちゃになってしまっている人がいて、「嫌いって言っちゃいけないと思う」「ものごとを比べちゃいけないと思う」「ジャッジはダメ」と盲目的に言っている人が、なにが好きなのかをわからなくなってしまっていたりします。

「ジャッジをするな」ともよく言われますよね。それに従おうとして「ジャッジはよくないですよね!」「最近ジャッジしなくなってきました~」みたいなことを言う人がいるのですが、その判断、どこから来た?と思うんです。その、「ジャッジは良くない」という考え方に対して、自分で考えてみたのか?と。むしろ、それに対してまず自分のジャッジを下してから言ったらどうなのか?と。盲目的になにかに従うよりも、それを自分でしっかりジャッジできるようになってから、晴れてジャッジするかしないかを決めたらどうなの?と思ったりします。「ジャッジは良くないからやめますだなんて、ジャッジができるようになってからお言いなさい」と。

ぬおおお今日はなぜか嫌われ街道まっしぐらのわたしです。公開するのが恐ろしいですが、必ずこのまま公開します。なぜかって、恐ろしいというのがそもそも嘘だからです。ぶはははは、こうして自分は嫌われます!!

なにかを好きになると言うことは、とても気持ちのいいことなのだと。気持ちよくなることをもっと自分に許してもいいのだと。正しいかどうかだけではなく、気持ちいいかどうかという基準を日々に取り入れてもいいのだと。そんな、ある種の『許可』を勝手に感じました。その瞬間、すでに私は自由でした。その瞬間、すでに私は楽園にいました。なにを好きになってもいいし、好きになるものをいくらでも自由に選べるし、最終的には「好きしかなかった」この世界を、許すもなにも「とっくの昔から許されていた」この世界を、そして「いつまでもここにいることはできない」この世界を、はじめてそれを見た時のようなまなざしで捉えることができました。好きが、喜びが、地図を彩るのだと思いました。そして、その「好き」や「喜び」は、喜怒哀楽の全部にあると思いました。

名文すぎて10回くらい読ませていただきました!!正しいからとかそういうことではなくて、わたしにとって大変美しい文章でした。感動しました。

自分の外に基準があれば苦しく、自分を基準にしてしまうと楽になる。楽しくて自由で嬉しくなる。わたしたちってそんな生物ですよね。そんな生物なので、それに摩擦なく従えばいいのだと思います。それがあまりにシンプルなので、余計なものに染まっている人にとっては、かえって難しいだけなのだと思うんです。探す必要すらないくらい、すでにやれることだと思い出すだけでいいんですよね。でも、それがシンプルすぎて甘すぎて、むしろ嘘だろうと思えるくらいにただそのままでいいものだから、なにかを探しているあいだは見つからないのだと思います。

自分の心地よさを羅針盤にして生きていい。わたしは、それ以外に生きていてやることなんてないと、きっぱりと思います。わたしたちが自分にそれを許可するのに、なにひとついらない。お金も、実績も、人脈も、社会的地位も、立派な行動も、学歴もいらない。家も、仕事も、美しさも、成功も、作品も貢献すらも。なにかがうまくいっていないと感じる人は、ただ心地よくないだけです。欲しい心地よさを無視しているだけです。なにかが心地悪いのに放置しているだけです。その行動と、自分の心地よさとのギャップを埋めればいいだけなのだと思います。それをほんとうにやろうと思うと、すごいチャレンジと冒険と最高の修行が待っています。それをサボっているだけなのだと思うんです。

その心地よさを追ったとき、圭吾さんの仰るように、喜や楽だけがあるわけではないと思うんです。喜怒哀楽が全部詰まっていて、けっこう大変じゃないですか。それを避けているから、満足もやって来ない。すごい矛盾のようですが、人って満足するためには喜んだり楽したりしているだけじゃダメで、怒ったり悲しんだりの自分も解放したいのだろうと思います。
満足したきゃ、抑えていないで好きなだけ怒れ、泣け、悲しめ、苦しめ!ってことなのかもしれませんね。少なくとも、わたしはそうです。そして勝手に圭吾さんもそうだと思っています!!お会いした際にはまた、俺たちがなにに怒っているのかをぶちまけたりなんかして、一緒に笑いたいな~などとと思っております!!それがわたしの心地よさです!!

誰かを好きになるほど自分を好きになるといいますか、世のため人のため自分のためというのは全部イコールで、世のためになっているけれど自分のためにはなっていないのだとしたら、それは世のためにさえなっていないのだと思います。全部自分だな、と思います!!

ここに激しく首を振ったために頚椎をバーチャル損傷しました!!ありがとうございます!!そうそう、世のため人のために自分に我慢を強要している人は、世のため人のためになっていないのをわかっていないのだと思います。むしろ害…!!あなたの不快は神さまはじめすべてに喜ばしくないことです、とお伝えしたい。

唯一、忍耐が功を奏するのは、その忍耐が自分のためであるときだと思います。たとえば、筋トレをしてめっちゃ苦しいときとか、いつも怒ってしまってあとから罪悪感にかられる相手に対し、ぐっと耐えて怒らずにいるときとか。ムキムキになりたい自分、穏やかに接することができて誇らしく思いたいという、自分のほしい快を、無視しないために耐えるときだけだと思います。

人類って困った存在ですよね!!誰もが面倒臭い部分を抱えていて、その面倒臭い部分こそがそのひとの人間らしさ、愛らしさ、格好よさになるのだと思います。困った存在、だからこそ面白い存在なのだと思います!!性エネルギーはそのまま生命エネルギーであるとは、本当にそうだと思います!!私はJ-POPが大嫌いで、街中で流れているのを聞くだけで「耳が腐る」と激おこになります。なぜ、あんなに嫌いなのかわからないのですが一言で言えば「なよなよしてる」と感じるからです。お前ら全員自分に酔ってるだけじゃねえか、よろしく浸ってんじゃないよ、いつまでそこにいるんだよと思ってしまうのです。あんなものばかり聞いていたら全員骨抜きにされるぞ、自意識にがんじがらめになることがかっこいいとか大嘘だからな、誰もなにもしてくれないんだよ、欲しいものがあるなら自分で獲りに行くんだよ、お前が一番嫌いなのはなにもしようとしない自分自身なんだろ、それなのになに傷を舐め合うような音楽ばかりを聞いているのだ、馬鹿か、みたいなことを瞬時に感じて「うごごごご」と悶えます。少々大袈裟に書き過ぎましたが、自分に酔っているだけの言説が多過ぎる気がして、そこに激おこになります。酔うなら酔うでダイナミックに酔ってくれたら一緒になって酔えるのですが、それがまあいい感じに中途半端で「ええ加減にせい」と思っちゃいます。自己憐憫はもうたくさん。私は、自意識を吹き飛ばすものが好きです。

全文引用以外の選択肢がありませんでした。押忍!!雄!!推す!!わたしは一応のところ肉体が女性でかつ恋愛対象は男性なのですが、魂には性別はねえぜってことで、その男も女もない魂のところから、男らしさというわけではない、うおりゃあーという自分の命のマグマと言いますか、たくましさを感じました!!

わたしは娘が育つあいだ、これまでも一緒によく日本の曲を聴いたりしていました。が、たまに「今これが流行ってるらしいよ」などと言って聴かせると、あるときから娘が「この曲は気持ちが悪い」などと言い出すようになりました。それが、いつも流行りのJ-POPなのです。わたしはなぜかそこに好奇心が爆発して、なにが気持ち悪いのかと訊いてみましたところ、「可愛いと思われたがってる」「子供っぽいと思われたがってる」「無難な感じにしようとしてる」「そういうのを演出している」「嘘っぽい」「大人になっていない」「愛されようとしている」「嘘の声色で歌ってる」みたいなことを言い出しました。圭吾さんの感覚と似ている気がします。

わたしはそういう感覚をイタリアに住んでこちらの文化に触れるようになってから感じるようになりました。日本は地球上でも特殊なスポットだと感じます。たまに帰ると、日本の空気に、過剰な遠慮と疑心暗鬼とを感じます。
「好きだって言えないんだ、表せないんだ、だから僕は遠くから見ているのさ、愛してるって何度言いかけても言わないのさ」という男のフラれる恐怖と遠慮と弱気をなぜかとても良いことのように歌った曲が売れることに、自分の感性との大きなズレを感じます。

自分を面倒臭い存在だと感じることは日常茶飯ですが、それでもなお「世界にこんな動物が一匹くらいいてもいいよね」とか「俺は面倒臭いけど、一緒にいると面白いよ」とか「死にたくなったら俺を見ろ」などと言えている時の自分は大好きです!!自分の面倒臭い部分を慈しめただけ、誰かの面倒臭い部分を慈しめるのだと思います!!

ほんとうですね。自分の面倒くさくてしょうもないところをセルフ叱咤して否定している人は、他者の面倒臭さのことも嫌なんだろうなと思います。だから、自分のこれがダメであれがダメで自信がないです~とか言うことで、弱者で可哀想な人という「人から攻撃されずに済みそうな鎧」を着た人を、「君はズルくて厳しいなあ」と思います。

日々ツイッターを見ていると、「自分の考えや主張を持った女性」「自信のある女性」「自分を愛し認めている女性」を徹底的に誹謗中傷する人たちがたくさんいるのを目にします。逆に、子どもっぽくてドジで自分の考えのないコントロール可能に見える女性は、チヤホヤされがちです。それを見ていると、これが世界の闇だなあという気がします。イタリアの国会ですら、女性議員の発言には男性議員からの激しい男女差別のヤジが飛びます。家に帰ってラザニアでも作ってろ!!などと罵られ笑われたりするのです。

女性は男性に従順なのが好まれますが、クソ喰らえと思います。そうでない女性を攻撃するヤツは、男でも女でもまだ眠っていて起きてすらいないと思います。眠っていて夢を見ているので、女性はその鼻提灯をふくらました寝言に付き合っていないで自分の面倒くささを認め愛する勇気を持たなくてはならないと思います。わたしはお前みたいなクズな上に面倒くさい女はいらねえと言う男がいても寝言だとしか思いません。面倒だと言われても、人類総面倒くさ生物だと思っているため、「あらまあ、今更なにを言うのかしら」と思います。そういうお前がいちばん面倒臭いぞ♥と、早く起きろボゲ♥起きてから言いやがりくださいこの間抜け♥と思います!!

あたしゃ思うのです。いま、ジャパンは自己憐憫にあふれています。被害者意識が蔓延していると言いますか、これはきっと被害者ヅラをすることで得られるメリットがあるからなのだと思うのですが、これって生き方として超絶ダサいと思うのです。正しいかどうかはわからないけれど、いまの自分がダサいかダサくないかは、感覚的にすぐ理解できることだと思います。私にとって、この世で一番ダサいことは「誰かのせいにすること」です。誰かのために生きているとか言い始めたらワンアウト。こんなに頑張っているのにとか言い出したらツーアウト。やりたいからやっていますと言えなくなったらスリーアウト、チェンジ。生き方を変える合図だと思います。誠に僭越ながら、自分と壇珠さんは『ダサさ回避に命を賭ける連合』の組合員だと思っておりまして、これを逆に言いますと『惚れる力で乱世を生き抜く連合』の組合員でもあると思っています!!勝手にごめんなさい!!勝手にありがとうございます!!勝手に戦友だと思っております!!壇珠さんが生きているなら、よし俺も生きようなどと勝手に力をいただいております!!押忍!!

あたしゃも思います!!あたしゃも正しいよりもダサくないほうを好んでいきたいと常々思っておりまして、そのせいで社会不適合な部分を多分に持ち合わせた生物となってしまいました。ですが、てやんでい!!と思います。なんなら、正しくてもダサかったらそれはもうわたしの中で間違っています!!間違っていてもかっこよかったら、それはもうわたしの中では正しいです!!そうですよね!!それが通じる相手だということが、こんなにもよくわかる。そんな圭吾さんがいてくださり、わたしはとてつもなく心強いです!!これは友情なのでしょうか人類愛なのでしょうか仲間愛なのでしょうか男女愛なのでしょうか。とにかくその点のみですでに、同組合員の圭吾さんにビッグな愛を感じます!!これはなんとなんと、幸せなことでしょうか!!ありがとうございます、ありがとうございます!!

自己憐憫にあふれている、これをきっと本当だろうと思います。多くの人が知らぬ間に緊張していて、肩に力が入っている気がします。なのに、力を抜くほうが更に力むことよりも怖いことになってしまっている気がします。

わたしは人前に出てもリラックスしている人をカッコいいと思います。きっとそう感じる人はたくさんいると思うのですが、そこに答えがあると思います。人前でリラックスしている人を素敵だと思うとき、自分が人前でもリラックスしたいのだと思うんです。夢を見なくなるって、なにかに憧れたときに、自分もやってみよう!と思わなくなることだと思います。憧れは憧れとして線を引いてしまって、我が身に起こることだとは信じなくなる。

でも、小さな女の子がアニメでお姫様を見ると、すぐに自分もドレスを着たがりすぐにティアラをかぶりたがるように、素敵だと思うことを素直に真っ直ぐに「自分を使ってやってみよう」と思えたとき、自己憐憫に浸っている暇はなくなると思うんです。あれのせいでできない、これのせいでやれない、そう言って被害者でいるとやれないからです。これは、正しいだとか間違っているだとか言える性質のことではないと思うのですが、カッコいいカッコ悪いで言ったらカッコ悪いと思います。わたしも、なにかができなかったときは自分のせいだと思います。そしてやれたときはなぜか、自分でやったというよりは、全宇宙でやったんだぜ!!と思います!!なぜって、そう思うほうがカッコいいからです!!ありゃあ!!

言葉と身体が一致をすると、勝手に元気になりますよね!!この往復書簡から何度元気をもらったことでしょう!!いつも元気をありがとうございます!!私が糞転がしなのか、それとも転がされている側(糞)なのか、見定めることもできない程度には倒錯をしておりますが「トータルで最高だった」と言える人生の日々を、転がり続けて行きたいと思います!!自己憐憫を超えて、歓喜に至れ!!俺!!うおおおおおおおおおおおお!!

この往復書簡から、わたしもいつもものすごく救われています。人が正直であるとき、それはその人にバカを見させるわけでも損させるわけでもなく、元気にするものとつくづく感じています。

書けば書くほどフォロワーを減らすこの正直書簡ですが、少なくとも圭吾さんだけは読んでくださり、少なくとも真剣に見てくださる。これに安心することで、広げ壊し育てられているところがたくさんあります。

だからこんな変態書簡を読んでくださる読者さまは、確実に変な人であり、変だけど本質を求める、自分に対して勇者であろうとする人であると思っています。そんな読者さんにも大いなる感謝を感じます!!勇者って変人なんです。凡人が嫌なら、変人になればいい。凡人を越えようだとか凡人より立派になろうだとかするのではなくて、変人になって笑われればいいのだと思います!!わたしはそれでも、そんなわたしは少なくとも自分にとってのエンターテイメントだぜと思います。あ、あなたわたしを笑っちゃった?わたしも笑っちゃったのよ~ってな感じで、自分を指差しバカにする人と一緒に自分を笑えばいいのだと思います!!そして言ってやるのです、そんなあなたもいちばん身近で一生をともにするあなた自身を笑えなきゃ、一生仏頂面だわね!!と!!最後まで嫌われそうなことを書きましたがこのままウキウキ贈ります!!お返事楽しみにしております!!!

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