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607/1096【パラドックス】テセウスの船

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で607日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

607日目。外出が規制されていて家にいっぱなしなのが悪影響なのか、少し前に治ったかに思われた何らかのウイルスの感染症が、ちょこちょこ復活する。

今日もまた風邪様の症状で、頭痛やら悪寒やらに加えてひどく眠く、ベッドに居るとひたすら眠り続けてしまう。

このままでは毎日投稿が途切れてしまう・・・タイムリミットまであと約3時間だ。無理矢理に起きて書き始めてみたが、今日は更新できるだろうか。

とにかくベストを尽くそう!それしかやれることがないのだから。

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瞬く間に5分が過ぎた!わたしはその5分間、なにをしていたのだろう?!寝落ちして意識が途切れていたのだろうか。危険なコンディションである。

5分間のことがわからなかったり、かといって40年以上も前の記憶があったりと、人は面白いものだ。この歳になると、自分の昔話をするときに「かれこれ20年も前のことだよ」などと言えるようになっていて、自分で不思議になることがある。

20年前にもわたしは存在していたのだけれど、その自分は今のわたしとは姿も考え方も違う人だ。話していても、あの時はこんな事にこだわっていたからね、などと別の人のことのように説明してしまう。
しかし考えてみれば、姿も考え方も違うその人物を、わたしは自分だと言う事ができるのだろうか?

わたしは高校生のころに付き合った彼氏から、わたしがある別の男の子を好きなのではないかと心配されていた。ある日、わたしはその彼から手紙を受け取った。そこには、「あなたがその人のことを思っていたのだとしても、人間の細胞は数ヶ月で入れ替わってしまうらしいから、しばらく経ったらその人を思っていたあなたはもういなくなるんですね。それが嬉しいです」というようなことが書かれていた。

以来わたしはそのことを考えるのにハマってしまい、そこから膨大な思索にふけった。わたしは、自分の身体がすべて入れ替わったらわたしなのだろうか。もし事故に遭って、身体のどこかに金属のボルトを入れるなどして支えたり、義足や義眼を使っているとしても、その後もわたしは自他からわたしだと認識され続けることだろう。しかし、わたしの身体が100%別のものに置き換えられたとしたら、それはわたしなのだろうか。どこをもってしてわたしだと言えるのだろう???

もう20年以上も前にこのことを考え始めて、わたしはこれまでに、ここからたくさんの気づきを得ることができた。そこで数日前に、これが有名なパラドックスだったと知ったのだ。今日はそのことについて書いてみよう!

みなさんは、テセウスの船というパラドックスをご存知だろうか。これが上の話とまさに通ずるものなのだ。

テセウスというのは、ギリシャ神話に登場する英雄。クレタ島に住んでいた悪漢ミノタウロスを倒したことで英雄となった人物である。

テセウスは船でクレタ島に出向き、討伐を終えて同じ船で帰還したのだが、このミノタウロス討伐に使われたテセウスの船は、その後も英雄の船として大切に保管されることとなった。

しかし船というのは木材や金属などで作られており、部品はどんどん劣化する。これを修理し続けているうちに、とうとうテセウスが討伐に使った当時の船のすべての部品が新しくなってしまった。このとき、これを「テセウスの船」と呼ぶことができるのだろうか、という問いが生まれるのである。

この問いについて、かの有名なアリストテレスさんは、『四原因説』というもので説明しようとした。これが今のところ有力だとされているらしい。

モノを見るときに、アリストテレスは四つの要素があるんでないかい?と言ったのだ。形相因、質料因、目的因、作用因という四つの原因が、モノをそのモノせしめるのではないかという意見だ。

簡単に言うと、

◯形相因・・これは「まずそのモノはなんですか?」ということ。テセウスの船の場合、「海を渡る船」だと言える。

◯質料因・・これは「そのモノはなにでできていますか?」ということ。この場合は、当時は木材や金属片や帆布など。修理をし続けたあとは、この質量因が変化してしまっていて、当時とまったく同じものでできてはいない。

◯目的因・・これは「なんの目的で存在しているのですか?」ということ。テセウスの船の場合、テセウスの業績を讃え続けるため。

◯作用因・・これは「どのようにして作られたのか?」ということ。この場合であれば、船を作る大工さんによって組み立てて作られている。

つまりこのテセウスの船の場合、材料(質料因)だけは変わっちゃったけれども、他の要素は当時と変わらないと言うことができる。と、アリストテレスさんは言ったというわけだ。

するとここで、新たな問いが生まれる。では逆に、この世にこの四原因がまったく変わらないまま存在し続けられるものがあるだろうか?という問いだ。こう考えると、質量因はどうやっても時間経過によって変化し続けてしまう以上、そんなものはないと言えると思う。

このパラドックスを自分のことに当てはめて、わたしをわたし足らしめているものとはなんだろうと考えてみる。単純に、まずこのDNA、そして立場や人間関係、これまでの記憶、などなどが思いつく。

けれども、たとえば人間関係や立場が変わったとしてもわたしはわたしだ。記憶だって常に失っているし、過去のことをどう認識するのかも変化している。DNAだって、もしこのあと新薬や病気などでそのDNAに変化が起こったとしても、わたしはわたしだ。不思議なことではないだろうか!ではなにをもってして、わたしはわたしだと言えるのだろう。

もし身体を構成する物質が全て入れ替わって、
事故に遭うなどして記憶が失われ、
何らかの理由で今の人間関係や立場を失ったとして、
考え方や性格まで変化したとして、

それでも変わらないものとはなんだろう。なにをもってして、わたしだといえるのだろう。みなさんは、どう思うだろうか!

わたしは、それでも変わらないものと言えば、この観察眼ではないだろうかと思う。構成物質や記憶や人間関係や立場や考え方や性格に拠ることのない、唯一のもの。ただ常に、すべてに気がついているだけの、ただこの世界を眺めることのできる観察視点だけが、わたしが唯一わたしだと認識していられるものではないのだろうか。あとのものはすべて変化してしまうから。

自分は、老い、失い、変化して、なにひとつ同じに留まることがない。しかしわたしはそれでも常に、そんな自分に気がついていられる。たとえ身体がどんどん朽ちて形が変わっても、たとえ目が見えなくなっても、たとえ臭いがわからなくなっても、味がわからなくなっても、皮膚の感覚が無くなったとしても。

見なくても触感を感じなくても、わたしはここにいる。そこには、わたしは見えないな、わたしは皮膚が麻痺しているな、わたしは存在しているな、ということに気がついている自分が、確実にいるのだ。

このことを言い換えてみると、わたしは気づきであると言うことができる。

わたしは、気付き。
わたしは、気付き・・・・!!!

なんーーーじゃそら!と思わないだろうか?!わたしは思ってしまった。そして、それがわかってみたかった。自分が「気づき」であるということを、余計なものをすべて排除してわかってみたいと思った。けれどもやっぱりそれは普通に思索を巡らせてもなんーーーじゃそら!だったため、わたしは激しいジレンマに陥ってしまった。

わたしは自分が存在しているということを、視覚に頼り、嗅覚に頼り、皮膚感覚に頼り、体感に頼っているのだと、嫌というほど知ったのだ。わからないのだ。気付きだけ、というのが、どういうことなのか。

わたしはただ気がついている。
自分が世界に気がついている。
自分がいるということは、世界に気がついているということだ。

そして先の問いは、「では自分と世界には境界線があるの?」という問いになる。わたしは自分を自分だと思っている間はそれがよくわからなかった。けれども、秘行で自分を眺めているときに、その自分自身もが観察対象として「世界」に含まれていると気がついたとき、

あああーー!!自分も世界だったじゃないかよーーー!!

と気がついた。自分とは気がついているだけの存在だから、当然といえば当然だけれど!(笑)

だからってなんだというのだい?と言われれば答えに困ってしまうのだけれど、自分というのは観察して眺め味わうものだと思えるようになったことは、わたしにとって、生きるということをこの上なく安楽にしてくれたと思う。壇珠さんは、壇珠世界の観察者だ。観察対象というのは、観察者がどう観察するかによって違ってくる。

そうすると、たとえばなにかが起こったときに、誰かのせいで何かが悪くなったと考えるよりも、「へえ!壇珠世界にはこのようなことが起こるのですね」と、ちょっと離れたところから観ることができる。そしてそれをジャッジする前に、そべては自分がそれをどう観るかに拠るのだなと思える。なんだかほら、気楽でありましょう?

すべての人が、その人自身を含めたその人の世界を観察しているのだと思うと面白い。みなが世界で、それぞれの世界の観察点であることが面白い。この世は不思議だな、と思う。なんでも突き詰めて考えてみると、この宇宙の不思議さに出会うことができる。

今思えば、あのとき彼が書いてくれた手紙が自分をここに運んでくれたのが不思議だ・・そのおかげで、今は自分を思うとき、ただ物事は成るように成っていくのだろうという平安な気持ちでいられる。今の自分があるのも、時間の流れを尊重して考えると、あの手紙があったからだ。パラドックスについて考えると、なんだか壮大な気持ちになれますね!

というわけで今日は、若かりしころにもらった手紙から始まった、思索の旅と自分の気付きについての記憶のシェアでありました。読まれたお方にとって、ご自分を思う際の面白みとなってくれますように。

それではまた、明日!!

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