見出し画像

【吃音】治さないという選択

昨日ふらっと立ち寄った本屋さんで、「吃音(どもり)」に関する本が目に入った。
そこで私は久しぶりに思い出した。
「そうだ、私って、どもりだったわ。」と。

そしてその本を手に取り、パラパラとめくってみた。

私は衝撃を受けた。
その本には、私が予想だにしていなかったことが書かれていたからだ。

私の予想では、この類の本は、
吃音のメカニズムを説明した上で、「どうやって治すか?」とか、
実際に「私はこうやって治しました!」みたいな体験談が書かれている、
そういった本なのだろうと思っていたのだ。

ところがどっこいである。

この本では、吃音のメカニズムの説明はあるし、
治療法もいくつか紹介されていたが、
結局吃音の発症要因や治療法は未だ完全に解明できておらず謎のままである、
とされていた。
さらに衝撃的だったのは、

「そもそも吃音を治す必要があるか」という問いかけだった。

「えっ?」
と私は一瞬声を上げそうになった。

幼い頃から、ひどい吃音に悩まされていた私に、
その発想はなかった。

でも考えてみると、確かにその問いには一理ある、とも思った。
私の吃音人生を振り返ってみると、
私の場合、吃音で困ったのは、出だしの2,3秒と、
他人から笑われたりからかわれたり、心配されたりすることだけなのだ。

もちろん、しゃべるのが大変だと思った時期もあった。
7,8歳の頃だと思う。一番吃音がひどかった時期だ。
その時期は、出だしのどもる言葉すらうまくでてこなくて、
音を絞り出すために首を震わせるくらい力まないといけないほどだった。
話し始めるときに、口を開けたまま痙攣したようになるので、
同級生からは相当馬鹿にされたし、両親や先生からは相当心配されたし、
自分としても体力を消耗して疲れた記憶がある。

けれども、私は人と話すことが大好きだったし、
最初の2,3秒頑張れば、あとはスムーズにしゃべることができるので、
自分としては「ちょっと大変」くらいの感覚だったのだ。
(私の話を聞いてくれる人は「結構大変」だったかもしれない)

吃音のことを「発話障害」という人もいるが、
私にとっては、「ちょっと大変」だったのである。

ただ、「どもる」自分に対して、引け目は感じていた。
なんで普通の人みたいにしゃべれないんだろう、
普通にしゃべれるようになりたい、
と思っていた。

周りの大人からは、
「ゆっくりしゃべるようにしなさい」
とか、
「深呼吸してからしゃべるようにしなさい」
とアドバイスをもらったが、
これらは「ゆっくりどもる」だけだったし、
「深呼吸してからどもる」だけだったので、
良い解決策ではなかった。

私は歌うときや、怒ってまくしたてる時にはどもらなかったので、
「歌いながら自己紹介してみたら?」
とか、
「怒りながらしゃべったらいいじゃない?」
とか、
無責任なアドバイスをする人もいた。
歌いながら話したり、怒りながらしゃべる?
それはどもるよりいいのか?
いいはずはないではないか。
私は「普通に」しゃべりたいのだ。

「大丈夫、大きくなれば自然と治るから。」
と言ってくれた大人はいた。
確かに、これが一番近かったと思う。
7,8歳でピークを迎えた私の吃音は、
歳を重ねる毎に良くなったり悪くなったりしながら、
徐々に頻度が減っていったからだ。

でも、30代になった今でも吃音が完全に治ったわけではない。
今でも苦手な音から始まる言葉を発声する時は緊張するし、
実際、数回に1回はどもりそうになる。
そして、数10回に1回は実際にどもっている。
しかし大人になるということは、「ごまかし力」が身につくことでもある。
どもりそうなときは苦手な言い回しを回避したり、
苦手な音をあいまいに発音したり、
ちょっと咳払いでごまかしたり、
今では自分からカミングアウトしない限り、
私が吃音持ちだということが分かる人は少ないと思う。
自分でも自分が吃音を持っていることを忘れることもあるくらいだ。
実際にどもりそうになって「あ、やばいやばい」と気づく。

そうやって取り繕って生きてきたので、
昨日は目からうろこの衝撃的な日となった。

「吃音を治す必要はあるのか?」

吃音を治さずに、「吃音と共に生きる」そんな生き方があっても良いのではないか。
その問いに、私は人生を揺さぶられた気がした。

再度幼いころを思い返してみると、
私にどもり改善法をアドバイスしてくれた大人の中に、
「別にいいじゃん、どもれば。」
と言ってくれた人はいなかったのではないか。

「別にいいじゃん、どもれば、何か不都合ある?」
と幼いころ言われていたら、
私はじぶんの吃音を受け入れられただろうか。

そうだと思いたいが、そうではないかもしれない。
みんなと同じ「普通」になりたかったからだ、
おそらく自分の吃音を受け入れることはできなかっただろう。
でも、選択肢の一つとして、
「治さないでそのまま生きる」
という選択肢もあり、
「それは全く恥ずべき事ではない」
ということを教えておく必要はあったと思う。
「治す」「治さない」
それはあなたの選択なのだと。

ちなみに今の私は、
「治さない」という選択ができそうである。

そして、
まだ出会ったことはないが、
私と同じ吃音を持っている人に出会ったら、
「治さない」という選択があるということを共有しようと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?