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玄奘、高昌(トルファン)に入る

 西暦630年、早くも玄奘は困っていた。
 敦煌(とんこう)に、もう一か月近く滞在している。
 西域のオアシス都市の一つだ。シルクロードの分岐点だ。
 
 途中、ゴビ砂漠の南で、馬を死なせてしまった。突然だった。
 敦煌まで到着したが、荷馬と馬子なしでは西に進むのは無理だ。
 何とか調達しなければならない。困った。途方に暮れる。
 「どうか荷馬と馬子を見つけて、玉門関を通過できますように」
 弥勒菩薩像の前で祈りを捧げた。すると頭上から光が射した。
 ふと長安にいた時、占い師に言われた事を思い出した。
 「……師は天竺まで至るでしょう。赤い老馬に乗っています」
 そうこうしているうちに、一人の胡人が来て、三帰五戒を求めた。
 「……ありがとうございます。お坊さんは西に行きますか?」
 玄奘は合掌して、胡人のお布施を受け取ると、事情を話した。
 「……それなら人を紹介します。商人です」
 商人と会うと、老いた赤い馬がいる。即座に買った。御仏の導きだ。
 「……お坊さんは西に行きますか?私も同行させて下さい」
 商人と別れると、若い胡人が、現れた。馬子になると言う。
 こうして、玄奘は荷馬と、馬子を得て、敦煌を出発した。
 だが関所、玉門関で止められた。太宗が手配書を回していた。
 「……あなたはここに書かれている人ではないか?」
 その官吏は手配書を見ながら言った。玄奘はじっと相手を見た。
 「如何にもその通り。だがあなたは御仏を信じるか?」
 その役人は在家の信者だった。黙って通してくれた。
 「……なぜ捕まらないと思った?」
 「天竺に至らざれば、終に一歩も東帰せず」
 玉門関を通過すると、西に向かって歩いた。ここはもう中華ではない。
 最初の夜、玄奘と馬子は離れて、それぞれ横になった。
 だが真夜中になると、馬子は剣を抜いて、近づいて来た。
 「……お坊さん、危ない」
 女の童の声がした。玄奘は片目を開けて、若い胡人を見た。
 横になったまま、心の中で仏の姿を念じた。相手にも仏性がある。
 読経の声が低く流れる。馬子はそれ以上、近寄らず、戻って寝た。
 「……これ以上、西には行けない。国法を犯す事になる」
 翌朝、若い胡人がそう言った。腰に剣を佩いたままだ。
 「分かった。これまでありがとう」
 「……その馬は置いて行け」
 馬子は剣を再び抜いた。赤い老馬はいなないた。
 「分かった。馬は置いて行く」
 玄奘がそう答えると、見えざる影が動いたように思えた。
 「……馬鹿め。馬無しで渡れると思うか?死ぬがよい」
 玄奘は持てるものだけ背嚢に入れ、残りは馬と共に渡した。
 「……この後、どうするのですか?」
 女の童の声がした。誰もいなくなると、彼女は現界した。
 「あの馬は御仏が用意した。お返ししただけだ」
 玄奘は歩いた。馬糞と白骨の山が築かれていた。冥福を祈る。
 砂塵の中、数百騎の軍勢が現われて、襲い掛かって来た。
 ――恐れるな。恐れるな。これは荒野の軍団だ。
 謎の声が聞こえた。御仏の導きか?
 それは幽鬼の群れだった。あの白骨たちの主だろう。
 「……ここは任せて下さい。護衛を呼びます」
 女の童が言った。すると、三人の異形の者たちが現界した。
 「この者たちは?」
 猿の女が大声で異言を吐いている。何を言っているのか分からない。
 「……とりあえず、頷いて下さい」
 女の童がそう言うので、玄奘は頷いた。すると三人は戦い始めた。
 「……御仏が用意した三騎衆です。仏敵からお守りします」
 玄奘は最早黙って、成り行きを見守る事にした。敵は悪霊の軍団だ。
 三人は、楽し気に、声を掛け合って戦っている。言葉が分からない。
 だが聞いているうちに、発音の規則性から、多少の推定が付き始める。
 ふと見ると、赤く老いた馬がいた。砂塵の戦場の中を走っている。
 乗り手はいない。猿の女が馬を捕まえて、こちらに引いて来た。
 「……オッケー?」
 「おっけー」
 玄奘は答えた。初めて意思が疎通した。時空を超えた会話だ。
 猿の女は笑顔を残して立ち去った。いつしか幽鬼の群れも消えていた。
 
 翌日、西域最初の国、高昌(トルファン)を目指した。
 タクラマカン砂漠の北側を通る天山南路だ。
 シルクロードの表道だ。キャラバンに紛れて旅する。
 途中までは順調だった。だが隊商と別れてから、水を切らした。
 オアシスがある筈なのだが、見つからない。やっとの事で見つける。
 水を浴びる程飲むと、皮袋に水を詰めて、赤い老馬と共に出発した。
 半日ほど歩き、あまりに風景の変わりのなさに恐怖心が沸いた。
 休憩を取ろうと思い、皮袋を降ろした時、水が零れて、全て失った。
 女の童も悲しそうな顔をしている。こういう事には協力できない。
 これでは旅を続けられない。一度、オアシスまで引き返そうか?
 「いや、どうして東に帰って生きようか?むしろ西に向かって死のう」
 最初に願を掛けたのだ。取経するまで東に帰れない。仏との約束だ。
 玄奘は暗くなるまで、西に進んだ。それから三日三晩、水なしで進んだ。
 女の童が心配そうに声を掛けた。悲し気な顔が心に残る。
 いつしか荒野に倒れていた。意識が遠のく。世界が変わる。
 そこは雲海だった。少し黄色い。遠くに金色の光が見える。
 巨大な人影だった。目が潰れそうだ。目を閉ざして、仏を念じる。
 ――我、西域求法の旅にて、無上の法を求める者なり。願わくば、一切衆生を救う法を届け給え。この命と引き換えであるならば、それも惜しまず!
 そこで夢が破れた。涼風が吹いている。水気がある。身体に心地よい。
 五日目、玄奘も馬も立ち上がれる程回復した。朝露に濡れた。助かった。
 身体は蘇生したが、意識がついてこない。だが睡眠中、揺さぶられた。
 女の童だ。早く行くように急かしている。見ると、三騎衆もいた。
 「……今行かないとまた乾いてしまいます。急いで」
 猿の女が、長い棒で西を指し示した。とびっきりの笑顔だ。
 それから一行は歩いた。数理歩くと、オアシスが見えた。
 水は甘く澄み渡っている。全員で水面に飛び込んだ。
 よく見ると、見慣れない草が生えており、水面に森が映っていた。
 どこか知らない世界と繋がっていた。これは一時的な現象だ。
 「御仏のご加護か。ありがたい」
 玄奘は一日ここで過ごすと、水を頂いて、西に進んだ。
 岩山をくり抜いた寺が見えた。三人の中国僧が出迎える。
 「……今日、再び中国の人に出会えるとは思わなかった!」
 その僧たちは喜んで、玄奘を寺に迎えた。高昌の様子を訊く。
 「……ここから数日の距離にあります。使いの者をやりましょう」
 玄奘は先を急ぎたいと伝えたが、三人の僧はこれを許さず、逗留した。
 それから数日すると、高昌から数十名の者たちが迎えに来た。
 「一介の旅の僧に過ぎない。大げさに過ぎる」
 玄奘は辞去しようとしたが、集団で護送されて、白馬に乗せられた。
 「……あの馬は私たちが預かりますね」
 女の童の声だけ聞こえた。赤くて老いた馬が、最後尾に続いた。
 途中、何度も先を急ぐ旅なのでと伝えたが、迎えの者は離さなかった。
 そうこうしているうちに、高昌の境界線にある白力城を越えた。
 「……あともう少しです。王城に参りましょう」
 日が暮れたのにもかかわらず、一行は前進した。玄奘は休みたかった。
 夜半、高昌の王城に到着すると、楼閣から明かりが漏れていた。
 城中に明かりが灯り、盛大な歓迎をしてくれた。まるでお祭りのようだ。
 玄奘は白馬を降りると、正門に高昌王が立っているのを認めた。
 「……私たちは周囲の警戒に当たりますね。孫悟空だけ残します」
 女の童の声だけ聞こえた。三騎衆共々現界しないで、行動していた。
 玄奘は任せると、赤老馬を気にしながら、高昌王と対面した。
 「……遠路遥々、ようこそ高昌へ。私が麴文泰(きくぶんたい)だ」
 胡人のようだったが、流暢な華北の言葉を話した。西域訛りがない。
 どうやらこの王は、長安にいた事があるらしい。唐人を知っている。
 「玄奘です。西天取経の旅で、立ち寄りました。天竺を目指します」
 「……天竺までの旅は長い。どうかこの城でごゆるりとされよ」
 そういう訳には行かなかった。一晩泊まったら、出発したい。
 「……立ち話も何です。中にお入り下さい」
 止む無く続いた。ふと楼閣の二階から視線を感じた。
 そちらの方に顔を向けると、高昌王は言った。
 「……何もない城ですが、後で妃も会わせます」
 玄奘は頷いた。二階の窓から白い布が揺れていた。
 「……他にも主だった者を集めます故、ここでお待ち下さい」
 お城の控室に通された。こんな処で時間を潰している訳にはいかない。
 旅はまだ始まったばかりだ。それが玄奘、高昌に入るだった。

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺040


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