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[英詩]ディランと聖書(7) ('Do Right to Me Baby (Do unto Others)') 後編

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

「英詩のマガジン」の主配信の5月の1回目です(英詩の基礎知識の回)。

今回はボブ・ディランの 'Do Right to Me Baby (Do unto Others)' (アルバム 'Slow Train' [1979] 所収、下) と聖書の関りを考える後編です。

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前編では、並行法と、do right とについて基本的なことを考えたあと、ヘイリンとギルモーの本歌に対する見方を挙げました。さらに1連とコーラスを見て、本歌の基本的構造を考えました。

今回は、その続きです。アーティストの仕事、ユーモア、touch, 2-5連をみます。詩テクストはリクスらの校訂版を用います。

本マガジンは英詩の実践的な読みのコツを考えるものですが、毎月3回の主配信のうち、第1回は英詩の基礎知識を取上げています。

これまで、英詩の基礎知識として、伝統歌の基礎知識、Bob Dylan の基礎知識、バラッドの基礎知識、ブルーズの基礎知識、詩形の基礎知識などを扱ってきました。(リンク集は こちら )

また、詩の文法を実践的に考える例として、「ディランの文法」と題して、ボブ・ディランの作品を連続して扱いました。(リンク集は こちら )

詩において問題になる、天才と審美眼を、ボブ・ディランが調和させた初の作品として 'John Wesley Harding' をアルバムとして考えました。(リンク集は こちら)

最近、7回にわたってボブ・ディランとシェークスピアについて扱いました (リンク集は こちら)。前々回から、歴史的には、そして英語史的にも、同時代の英訳聖書と、ディランについて扱っています。

「ディランと聖書」シリーズの第1回でもあげましたが、ディランと聖書の問題を考えるうえでの基本的文献は次の通りです。

(1) Bradford, A[dam]. T[imothy]. 'Yonder Comes Sin' [formerly 'Out of The Dark Woods: Dylan, Depression and Faith'] (Templehouse P, 2015)
(2) Cartwright, Bert. 'The Bible in the Lyrics of Bob Dylan', rev. ed. (1985; Wanted Man, 1992)
(3) Gilmour, Michael J. 'Tangled Up in the Bible' (Continuum, 2004)
(4) Heylin, Clinton. 'Trouble in Mind: Bob Dylan's Gospel Years - What Really Happened' (Route, 2017)
(5) Karwowski, Michael. 'Bob Dylan: What the Songs Mean' (Matador, 2019)
(6) Kvalvaag, Robert W. and Geir Winje, eds., 'A God of Time and Space: New Perspectives on Bob Dylan and Religion' (Cappelen Damm Akademisk, 2019) [URL]
(7) Marshall, Scott M. 'Bob Dylan: A Spiritual Life' (WND Books, 2017)
(8) Rogovoy, Seth. 'Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet' (Scribner, 2009)

これら以外にも、一般のディラン研究書のなかにも聖書関連の言及は多く含まれています。それらについては、参考文献 のリストを参照してください。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(202105)」へどうぞ。

このマガジンは月額課金(定期購読)のマガジンです。月に本配信を3回お届けします。各配信は分売もします。

英詩の実践的な読みのコツを考えるマガジンです。
【発行周期】月3回配信予定(他に1〜2回、サブ・テーマの記事を配信することがあります)
【内容】〈英詩の基礎知識〉〈歌われる英詩1〉〈歌われる英詩2〉の三つで構成します。
【取上げる詩】2018年3月からボブ・ディランを集中的に取上げています。英語で書く詩人として新しい方から2番めのノーベル文学賞詩人です。(最新のノーベル文学賞詩人 Louise Glück もときどき取上げます)
【ひとこと】忙しい現代人ほど詩的エッセンスの吸収法を知っていることがプラスになります! 毎回、英詩の実践的な読みのコツを紹介し、考えます。▶︎英詩について、日本語訳・構文・韻律・解釈・考察などの多角的な切り口で迫ります。

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これまでのまとめ

シリーズの (1), (2), (3), (4) についての簡単なまとめは こちら

(5) は 'I Want You' の聖書との関りを考えました。その歌は「自由連想技法」または「ポインタ技法」とも呼べる技法を用いています。指し示す先はコヘレトの言葉の12章1-7節です。世界文学のなかでも詩的比喩的表現で知られた有名な箇所です。そこへの言及を歌のなかにちりばめています。文脈をこわして自由に連想をひろげるやり方は現代詩的です。

(6) は 'Do Right to Me Baby (Do unto Others)'  の聖書との関りを考えました (前編)。その歌は旧約聖書のヘブライ詩研究で見つかった並行法でヴァースが組立てられており、一方、コーラスは、これも聖書と関わりの深い do right をめぐって唄われています。ヘイリンがそれをイエスの金言〈人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい〉に基づくものと捉えたのに対しギルモーは議論の余地ありとしています。リクスはヴァースの変奏をあとづけます。do right to one another (互いに正しいことをする) を誠実にはたせば、do right by others (人を公平に扱う) に至る見込みは大きいというのですが、言うは易く、狭き道です。


Do Right to Me Baby (Do unto Others)

今回は、'Do Right to Me Baby (Do unto Others)' (下) を、聖書との関りで考える後編。

動画リンク [Bob Dylan, 'Do Right to Me Baby (Do unto Others)' (1978)]


アーティストの仕事

ここで、アーティストの仕事は、〈見返りほしさ〉臭をいかに除去するかであるとリクスはいう。

ディランの本歌は恋の歌であるのに、きみがぼくに正しいことをしてくれたら、ぼくもきみに正しいことをしよう、とは、単なる互いの取引なのか。あるいは、イエスの黄金律は、自分がしてもらいたいように人にするという計算高い行動を人に勧めるものなのか。

この歌がそんな打算づくのふるまいを勧めるものと受取られるならば、何ともつまらないではないか。アーティストたるもの、交換条件のような、互助会のような抜け目なさや功利主義、損得勘定を、恋や道徳から取り除けなければ、真のアーティストではない。

そこでリクスが挙げるのが、英詩人ジョン・ミルトン (1608-74) の例である。

So may some gentle muse
With lucky words favour my destin'd urn,
And as he passes turn
And bid fair peace be to my sable shroud!
('Lycidas', s. 2, 1637)

そこで心優しき詩神が
めでたき言葉でわが定めの墓を飾りたまえ、
そして通りがかるひとが
わが黒き経帷子に清らなる安息を乞わんことを!

ミルトンが、溺死した同窓生の詩人キング (Edward King, 1612-37) を悼んでつくった哀悼歌の一節であるが、後世の詩人が彼自身 (ミルトン) に対し、名声でなく、魂の安息を請うてくれるようにと願う。ここには、友の死を悼むことから、交換に自らの死を悼んでほしいというような卑しい互恵的心根がなく、ささやかな願いと、調子の優しさとがある。確かに、このような繊細な謙遜の調子であれば、算盤尽くの浅ましい臭いを除去できるであろう。


ユーモア

ディランの場合は、繊細さとは無縁である。代わりに彼はユーモアを用いて、功利臭を消毒している。

ことごとく期待を小さく裏切ることで、じらすことを楽しんでいるようなユーモアを発揮しているのだ。確かに、計算高い不潔な悪臭の解毒剤としてはユーモアは有効かもしれない。

だが、リクスは、このユーモアは「軽薄なものでない」('not frivolous') という。なぜなら、「魂の救済や破滅といった深刻な問題がかかわっている」からだ ('serious matters are at stake, salvation and damnation')。


1連 再び

そのような観点で、聖書の良き言葉 ('The good words of the good book') が初めから扱われているのが本歌である。そう思って1連をもう一度見てみる。聖書に由来するところを太字でしめす。

Don’t want to judge nobody, don’t want to be judged
Don’t want to touch nobody, don’t want to be touched
Don’t want to hurt nobody, don’t want to be hurt
Don’t want to treat nobody like they was dirt

山上の垂訓に始まり、園の墓の場面が続き、イザヤ書の預言を経て、詩篇の詩行に至る。ただ、ディランほどの詩人が、'Slow Train' のような宗教的アルバムにおいてであるとはいえ、神の言葉を引いたというだけのことで自分の言葉に権威づけをしているとは思えない。

そこには、触覚 (touch) を最初に出してくるというおもしろさがある[我々聴き手に届くことは必然的に聴覚 (hearing) を伴うが]。

伝統的に、五感のうちで触覚は視覚や聴覚より下に見られてきた。それを逆転してやろうというたくらみがあるのかないのか、ともあれおもしろい。

仮にこれが「百聞は一見にしかず」(Seeing is believing.) であれば、当たり前すぎて、おもしろくも何ともない。これは五感の上位 (?) 二者 (視覚や聴覚) の争いに過ぎない。

あとの3つ (smell, taste, touch) のうち、嗅覚や味覚は、名探偵が推理に使うことなどから、多少なりとも高尚なにおいがある。だが、触覚は、それら知的な営み群からは隔離され、差別されている。それを五感の中で最初に出してくるところがおもしろい。

実際、1行で Don’t want to judge nobody, don’t want to be judged と聴いたあとに Don’t want to touch nobody, don’t want to be touched を聴くひとは、ぎょっとするはずだ、その落差に。裁くことから触ることへ。(日本語の音は似ているが) あまりにも違う。裁判官が判決を下した後に、被告に触るか。いやいや、あり得ない。judged / touched の限りなく脚韻に近い韻が、逆に両者のギャップを浮かび上がらせる[この韻は厳密には母音韻]。

1行は山上の垂訓の Judge not ... への言及である (上記の聖マタイによる福音書 7章1-2節)。

2行はマグダラのマリアが墓を訪れ、復活したイエスに出会って「先生」('Master') と呼ぶと、イエスが「私に触れてはいけない」('Touch me not') と言う場面への言及 (聖ヨハネによる福音書 20章17節)。[なお、マグダラのマリアについては、伝統的に「娼婦」と見なされてきたが、バチカンは2016年6月16日に、聖マグダラのマリアを、他の使徒たちと同列に置き、7月22日を祝日とする教令を発した(従来は記念日)。現在ではカトリック教会では「娼婦」と見なされていないことになるが、ディランのマグダラのマリア観は従来の見方に影響されている可能性がある。]

3行は預言者イザヤが主なる神の言葉「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」('They shall not hurt nor destroy in all my holy mountain') を宣べ伝える箇所への言及 (イザヤ書 11章9節)。

4行は主の敵を待受ける罰についてダビデが「わたしは彼らを風の前の塵と見なし/野の土くれのようにむなしいものとする」('Then did I beat them small as the dust before the wind: I did cast them out as the dirt in the streets.') と謳う箇所への言及 (詩篇 18編43節 [AV では18.42])。


touch

五感のうち触覚 (touch) のみが相互的、互恵的である。to touch はすなわち to be touched である。触れられずに触れることはできない。

一方、見られずに見ること、聞かれずに聞くこと、嗅がれることなく嗅ぐこと、味わわれることなく味わうことは、いずれも可能である。ただし、英語の動詞の to smell は、to taste と同様に、他動詞でも自動詞でもあり得る。

そうした触覚 (touch) の相互的互恵的性格を考慮に入れると、1連の意味合いが変わってくる。

Don’t want to judge nobody, don’t want to be judged
Don’t want to touch nobody, don’t want to be touched

この2行は一見すると、完全に並行した構造を持っているように見える。行の前半の動詞が後半で受け身になっており、judge と touch の違いはあれ、構造は同じに見える。

だが、実は違う。1行は、単に judge についての観念を能動と受動との両要素において並列しただけである。judge という動詞が取り得る態 (voice) を並置しただけである (active voice [能動態] と passive voice [受動態])。

ところが、2行は、touch についての観念が、能動と受動との両要素を不可分のものとして、相互依存 (共生) のものとして、互いに相手なしでは考え得ないものとして樹てることができる[触れれば必ず触れられる、すなわち、一方的に相手に触れることは不可能である]。要するに、自分が人にしてもらいたいように人にするということである。つまり、この行は、本歌の題の Do unto Others そのものである。コーラスで唄われることがすでに1連の2行に内包されていたのである。

だから、一見、1行と2行とは並行的な構造をしているように見えて、中身は全く違っていたのである。

触れば、必ず触られることになる。だから、2行はそういう相互的な関係には誰とも入らないと宣言しているに等しい。

ただし、目の前にいる人物は例外である (present company excepted「ここにおられる方は別として」)。すなわち、「きみ」はべつだ。

ゆえに、「きみ」とはそういう相互的な関係でありたい。それがコーラスが全面的に唄っていることである。

つまり、大きな構文でとらえると、ヴァースの don't ... に対し、コーラスが but ... とつなぐ。究極の not A but B「AでなくB」の構造だ。目の前にいる「きみ」への熱烈な愛の表現ということになる。

まとめると、〈並行法からなるヴァース(not)+相手に相互的な関係を訴えるコーラス(but)〉という構造を本歌はしている。

最後に、そのヴァースの並行法の変奏をあとづけておこう。ヴァースは変奏されるが、コーラスは ほぼ同じである (最後のコーラスの3行のみ You got to do unto others と、頭に You が付いている)。


2連

Don’t want to shoot nobody, don’t want to be shot
Don’t want to buy nobody, don’t want to be bought
Don’t want to bury nobody, don’t want to be buried
Don’t want to marry nobody if they’re already married

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