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【書評】聖書事業懇談会講演録1

聖書事業懇談会講演録1 (日本聖書協会、2017)

意味は出会いによって生まれる

2018年12月に出版された『聖書 聖書協会共同訳』に向けて作業中の翻訳委員の貴重な講演が収められている(2017年刊)。

聖書協会として30年ぶりの新訳はスコポス翻訳理論を採用した翻訳。しかし、翻訳の原稿は1稿から8稿までの段階があり、画期的な案も最終的に日の目をみるとは限らない。

本書には翻訳の途中の興味深い断面が記されている。

石川 立氏の「聖書を耕す ——聖書との新たな出会いのために——」に次のことばがある。

文脈がどうであるかによって意味はいろいろ変わってきます。しかし、基本的には、言葉の意味というものは読者がなければ出てこない。生まれない。意味というものは、テクストと読者との出会いによって生まれてくるものだと言えます。文脈というのは、言葉の意味を限定する働きというよりは、テクストと読者とが出会いやすくする働きを持っていると言ったほうがいいのではないでしょうか。

そう述べた上で、一つの例を石川氏は挙げる。村岡崇光氏が問題提起した、ふつう「パン」と訳されている言葉(ヘブライ語でレヘム、ギリシア語でアルトス)を「ご飯」と訳すべきだという提案を石川氏は考える。

イスラエルの人にとってのパンは日本人にとっての「ご飯」に相当する役割がある。生活の糧や、心の糧、生活や精神や人生を支える糧という、きわめて重要な意味合いを持つ。ゆえに、日本人に対しては「パン」より「ご飯」のほうが原文の意味合いをよく伝えるというのだ。

確かにそうだ。しかし、石川氏は違う考え方をする。〈意味は出会いによって生まれる〉。〈一人の日本人がレヘム、アルトスという言葉を読む。言葉と読者が出会って「ご飯」という意味が発生する——これはいいでしょう。しかし、そこで発生する意味を訳語にしてしまうのは、いかがでしょうか。発生してきた意味を訳語にすると、言葉との出会いが今度は、また次の次元で起こることになります。今度は「ご飯」という訳語を日本人が読んで、そこで新たな意味が発生してきます。〉

つまり、訳者が読者の出会いを奪わないほうがよいと石川氏は考える。

訳は出会いを記述したり、その結果を発表したりするのではなく、出会いを演出するものです。答えを出してしまってはいけないのです。

この考え方は新鮮だ。翻訳をする人は一度考えてみる価値があるのではないか。確かに、ベツレヘム(パンの家の意)を「ご飯の家」と訳してしまうと、日本人にとっては新たな、おそらく別の意味が発生してきそうだ。

#書評 #聖書 #翻訳 #意味  

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