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時代越しそば

令和元年、五月三日。

今週は時間の観念が少しおかしい。週の途中で、いま何曜日なのか、とっさに分らなくなる。

年末年始と同じくらい、というかそれより長い休みがあり、途中で時代を越えた。

ごくしぜんに、四月三十日に年越しそばならぬ、時代越しそばを食べた。意外にそういう人は多いのではないか。

「Will」6月号を首尾よく入手できた。読みでがありそうだ。

表紙には出ていない、平川祐弘氏の「令和日本の精神」が堂々たる巻頭論文で、読んでじーんと来た。内容が、というより、まるで遺言のような書きぶりだったからだ。

まず、令和の年号が万葉集を出典とすることにふれ、次のように述べる。

我が国では三十一文字の歌の前では天皇も貴族も防人も農民も、いや浮かれ女でさえも平等である。歌を詠むことが日本人のあかしであり、外国に住む日系人も歌が選ばれれば新年のお歌会始めに招かれる。大和言葉で詠む歌こそ日本人のアイデンティティーなのだ。

そのあと、米国のミッション左翼による神道の曲解にふれ、さいごに天皇家のお務めとは何かを述べる。

天皇家のお務めは「続く」ことと「祈る」ことである。祈るとは広い意味での宗教的行為だが、黙禱や鎮魂の礼を政教分離の原則に抵触するなどという者はいるまい。同じ原則を奉ずる英国王室の式典が、ウェストミンスター寺院で執り行われることをわが国もみならうべきだろう。

産経新聞のサイトで「【令和に寄せて】生者と死者を繋ぐ万世一系 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫」という文章を読んだら、チェスタトンが引用してあった。

 「単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。…われわれは死者を会議に招かねばならない」(『正統とは何か』安西徹雄訳)

『正統とは何か』の新版が出ていることを知った。

令和の初日に買い求めた新聞三紙のうち、朝日新聞の別冊の皇居あたりの地図が非常に役に立つことが分り、保存しておくことにした。二面にわたる地図などは、電子版では見にくい。

#日誌 #そば #平川祐弘 #Will #天皇家

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