独立した瞬間と流れる時と
リラ的な物の見方には、今のところ判断を保留している。
しかし、各の瞬間が独立しており、瞬間を連結させた〈時の流れ〉などというものは錯覚であるというリラ的——あるいは「宇宙的」——時間観に異論を唱えることはむずかしい。
なぜかといえば、それは地球でおこなわれる物理学の時間を表す数式をみれば、そうとしか思えないからだ。厳密には数式ではなく、プログラミング言語だが。
*
それでは〈時の癒し〉に相当するものは地上の人間には賦与されぬのか。時間に限ればそうかもしれないが、他のそれはあり得るかもしれぬと、次の文章を読んで思う。
翻訳をおこなったのが尊敬する師であることを差引いても、この文章には真理のひびきがある。たしかに、地上の人間は重力の支配からのがれることはむずかしい。
しかし、上の文章を飛躍して捉えれば、たましいは恩寵により、重力の法則の支配を除外されるという。これが福音でなくてなんであろうか。
もちろん、ヴェイユはそんな分りやすい言い方をしない。あくまで、わたしの解釈である。
はっきりしているのは、地上の人間を——実質的に——支配するのは時間でなく重力であることだ。一見して存在する時間のほうは、時間の物理的実態を数式を眺めることにより解消できる。重力のほうはどうか。
上の文章をよく読むと、重力の法則が働くのは、あくまで物質においてであると言っている。
すると、ほんらい、たましいは重力の法則の支配を受けないはずである。だから、上の文章はある意味で当然のことを述べたに過ぎぬ。
ちなみに、原文では次のように言っている。
Tous les mouvements naturels de l'âme sont régis par des lois analogues à celles de la pesanteur matérielle. La grâce seule fait exception.
師に逆らうつもりはないが、最後の文は〈恩寵のみが例外をなす〉の意ではないか。つまり、恩寵のみが、たましいの自然な動きをもたらす、の意。