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[書評] 青本の佐藤良明訳は分かち書きされた散文詩のようには読めない

ボブ・ディラン『The Lyrics 1974-2012』(岩波書店、2020)

ボブ・ディラン『The Lyrics 1974-2012』(2020)

※ 84歳まではライヴを続けるというボブ・ディラン(まもなく82歳)が来日するのにあわせ、しばらくディラン関連の書を取上げます。

アルバム《血の轍》(1974)から《テンペスト》(2012)までの自作詞全187篇を対訳で収録した本。それ以前のアルバムは『The Lyrics 1961-1973』に収められている。前半が「赤本」、後半が「青本」と呼ばれる。

前半 (赤本)について評者は〈佐藤良明訳は分かち書きされた散文詩のように読める〉と書いた。

後半であるこの青本については、それは当てはまらない。その主な理由は、この期間には、いわゆる一連の 'Born Again' アルバムが含まれるからだ。特にこれらのアルバムでは、ディランは聖句や聖書全体を現代的に変形したり、それらへの応答をしている。

こういうディランの聖書テクストの料理の仕方は、おそらく訳者は百も承知だと思われる。しかし、それをふまえて訳すためには、たぶん最低限の注釈をほどこして聖書の文脈を補わねばならない。

だが、それは翻訳の契約でできない。訳注の附加が、やりたくてもできないのだ。すべて訳文の中で表さねばならない。そうなると、省略されている部分を注で補うことは不可能になる。訳詞に角括弧を添えるなど、無粋きわまりない。

以上の事情が当てはまる場合、本書の訳詞はそのままでは意味が通らず、散文のようには読めないことになる。読者がやれることは、訳詞の行間を読んで、自分で補うことくらいだ。訳者に対し意味が分らないぞと文句を言っても始まらないのだ。(とは言え、よく読むと、「堅固な岩」のように訳者が言葉を補った歌もあることはある。)

具体例を一つだけ挙げよう。アルバム《セイヴド》(1980)所収の「俺になにができるでしょう?」('What Can I Do for You?')の訳詞には、そのままでは分らないところが2箇所はある。うち、1箇所は直すことが可能だが、もう1箇所はたぶん直すことは無理だ。

1つめ。2連1行。

Pulled me out of bondage and You made me renewed inside
とらわれから俺を放ち、心の中をあらたにし

一見、何の問題もないように見える。しかし、〈とらわれ〉だと、抽象的な、比喩的な意味にとられるおそれがある。

しかし、グレイ(Michael Gray)は、これは聖書全体のモチーフに対する言及であるとする。端的に言えば、出エジプト記の核となる物語と、それを拡げたユダヤ=キリスト教の信仰の中心的メタファーとを、呼び起こすものであるとグレイは主張している。

つまり、'sold into bondage' と、そののちの 'out of bondage' の物語およびメタファーである。〈奴隷の身分へと売られた〉ユダヤ人が〈奴隷の身分から解放される〉ということだ。

出エジプト記6章5節では 'And I have also heard the groaning of the children of Israel, whom the Egyptians keep in bondage; and I have remembered my covenant.' (「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。」新共同訳) とある。つづく6節には 'Wherefore say unto the children of Israel, I am the LORD, and I will bring you out from under the burdens of the Egyptians, and I will rid you out of their bondage, and I will redeem you with a stretched out arm, and with great judgments:' (「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」新共同訳) とある。

この大きな像をふまえると、ディランの Pulled me out of bondage は、'sold into bondage' への応答であることがわかる。奴隷の身分へと売られたのを救い出すということである。

ディランは短い簡潔な Pulled me out of bondage によって、奴隷の身分にあったものが主により救い出されたことを、ダイナミックに語っているのである。シンプルながら、全聖書を貫く内容への力強い応答である。

だから、その解釈に立てば、この箇所については、〈とらわれ〉を、奴隷の身分を表す言葉に変えればすむ。

2つめ。4連1行。

Soon as a man is born, you know the sparks begin to fly
この世に生まれりゃたちまち火花が飛びはじめる

これも一見して、何の問題もない。英文和訳として完璧とさえ言える。

しかし、このままだと、意味がわからず、読者の側で行間を読み、省略されているものを補って解する必要がある。それが日本の読者に可能かどうか。議論がわかれるかもしれない。

何が省略されているのか。それは、「苦労」(trouble)ということばだ。つまり、人は生まれたとたんに苦しむというのが元の言葉であるが、英米人なら trouble を省いても、それへの言及だとたぶんわかるから問題ない。

どういうことか。ディランはヨブ記5章7節を知的でクリエーティヴに書き換えているのである。

Yet man is born unto trouble, as the sparks fly upward.
それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように。(新共同訳)

ここに実は肝腎な 'trouble' の語が隠されていることを最初に指摘したのは、リクス (Chrsitopher Ricks) だった。リクスといえば、ディランの文学的分析では最高峰の学者である。

このディランの書換えは、元のテクストに、「火花を発する、鋭利な、今にも迫ってくる同時代性」('a sparky, edgy, threatening contemporaneity (which is the essence of contemporaneity)') を与えると、グレイは指摘する。そのうえで、詩行に 'trouble' の語を入れる必要なく、trouble を示唆している。

このようなわざは、ディランの創造性の表れ、ひょっとすると天才の表れかもしれない。リクスが言うように、ディランが聖書のテクストをこういうふうに翻案することで、聖書がすっかり現代的で直截でシンプルなものになりながらも、古風な感覚がたっぷり残っているのである。

リクスのことばを引こう。

'Now that feeling that sparks can't but fly up into the sky, and that's like our trouble . . . [he] turns that into a modern world of aggression and punch-up . . .'
「火花が散ると空へ飛びあがらざるを得ないという感じは、わたしたちのトラブルに似ている . . . [ディランは]それをけんかとなぐり合いの現代世界に変えて表している . . .」

これはおそらく、ディランが聖書を繰返し読むなかで、人間が生まれることは苦しみの世に生まれることであり、それは火花が散れば上へ飛ぶことと同じくらい当然のことであることを、みずからのなかに深く染みこませた結果、出てきた表現なのだろう。ゆえに、trouble の語をはぶいても、born と sparks (fly) とを組合せれば自動的に彼の中では trouble が含意される仕組みになっている。あとは、聴き手がそれに気づくかどうかだけだ。

このような解釈に立つと、この箇所はおそらく直す方法がない。訳注をつける以外は。

赤本のところでも書いたが、アルバムに収録されていない曲が「追加収録」作品として収められている。それらの「なかには、その時期の最高傑作の一つと評価されているような作品」もあると、訳者は言う。青本(本書)に収められた次の作品だ。

「金の織機」'Golden Loom'
「カリブの風」'Caribbean Wind'
「アンジェリーナ」'Angelina'
「ブラインド・ウィリー・マクテル」'Blind Willie McTell'
「夢のシリーズ」'Series of Dreams'
「レッドリバーの岸辺」'Red River Shore'
「碧き山を渡り」''Cross the Green Mountain'
「きみから逃れられない」'Can't Escape from You'

以下、本書の名句集。

韻を踏んで鳴き交うコオロギ
Crickets talkin' back and forth in rhyme ('You're Gonna Make Me Lonesome When You Go', p. 19)

手にはざんざん降りの月光
Buckets of moonbeams in my hand ('Buckets of Rain', p. 32)

ふたりして山上の説教を聞いた、おれにはどうも複雑すぎて
割れたガラスに映ったくらいに理解できただけだった
We heard the Sermon on the Mount and I knew it was too complex
It didn't amount to anything more than what the broken glass reflects ('Up to Me', p. 36)

きみの声は野を舞う雲雀
Your voice is like a meadowlark ('One More Cup of Coffee', p. 55)

隻手の手打ちの音と同じだ、ありえない
Like the sound of one hand clappin' ('We Better Talk This Over', p. 112)

霊のたたかいが続いてる、肉と血はしりぞけられる
Now there's spiritual warfare and flesh and blood breaking down ('Precious Angel', p. 125)

きっと想像できないのだろう、天からくだる闇の怖さを
神さまに乞いねがっても死なせてもらえぬ苦しみを
Can they imagine the darkness that will fall from on high
When men will beg God to kill them and they won't be able to die? ('Precious Angel', p. 125)

アムステルダムやパリやらで、アメリカの未来を決める
Deciding America's future from Amsterdam and to Paris ('Slow Train', p. 131)

「支持せぬものは我に対す」ともイエスは言った
He said, "He who is not for Me is against Me" ('Gonna Change My Way of Thinking', p. 135)

天の力を放たれたのは、誰もしらない時間帯
He unleashed His power at an unknown hour that no one knew ('When He Returns', p. 147)

おれが去ったら、行き先などにはかまわずに
神を信じた男だったと、キリストが心にいたと言ってくれ
When I'm gone don't wonder where I be
Just say that I trusted in God and that Christ was in me ('Ain't No Man Righteous, No Not One', p. 150)

サタンがきたぞ、宙空の魔力のプリンス
あんたに勝手な法を作らせ、あんたの髪を鳥の巣にする
Here comes Satan, prince of the power of the air
He's gonna make you a law unto yourself, gonna build a bird's nest in your hair ('Trouble in Mind', p. 151)[〈あんたに勝手な法を作らせ〉は直訳でないのはわかるけれど、誤解を招きかねない]

乱流の空からはなれ、野原にてからだを休め
星々の近くでまどろむおまえの顔を小犬が舐める
Resting in the fields, far from the turbulent space
Half asleep near the stars with a small dog licking your face ('Jokerman', p. 223)

前世の彼女は世界の支配者だったのか、それとも
月下の川辺で聖歌を書いた正義の王の、忠実な妻だったのか
In another lifetime she must have owned the world, or been faithfully wed
To some righteous king who wrote psalms beside moonlit streams ('I and I', p. 239)

人跡未踏の道を歩いた、敏速な者が勝者にならないという道
この道を進むことができるのは、真実のことばを分割できる者
Took an untrodden path once, where the swift don't win the race
It goes to the worthy, who can divide the word of truth ('I and I', p. 240)

デリラ嬢は彼の女でその本性はペリシテびと
あんたの運命を魔法のようにいじれる女さ、ココナツパンとスパイスパンをベッドに運んできてくれる
Miss Delilah is his, a Philistine is what she is
She'll do wondrous works with your fate, feed you coconut bread, spice buns in your bed ('Foot of Pride', p. 250)['Philistine' はリクス編の校訂版詩集により訂正]

罪から集めたそのカネで、学問のためのユニバーシティを建てるのさ
「すばらしき恩寵」(アメイジング・グレイス)を歌い続けろ、スイス銀行に行き着くまで
They like to take all this money from sin, build big universities to study in
Sing "Amazing Grace" all the way to the Swiss banks ('Foot of Pride', p. 250)

美しさなど錆びつくもの
頼る相手が必要だったらあんた自身を頼るんだ
When beauty may only turn to rust
If you need somebody you can trust, trust yourself ('Trust Yourself', p. 279)

神でない人間に希望を託すな
他人が信じるものの奴隷になりたいのかよ
Don't put your hope in ungodly man
Or be a slave to what somebody else believes ('Trust Yourself', p. 280)

道はここで終わりだ、ベイビー、ここから先は牧草地
どれほどの罪であっても慈善で隠してしまえるところ
We've reached the edge of the road, baby, where the pasture begins
Where charity is supposed to cover up a multitude of sins ('Something's Burning, Baby', p. 286)

おまえはいつも言ってたな、人は正しいと信じることをする代わりに、いまの都合で行動して、あとで後悔するんだと
You always said people don't do what they believe in, they just do what's most convenient, then they repent ('Brownsville Girl', p. 304)

智慧の道など、選ぶものなし
Leaving no one to pick up a trail ('Political World', p. 325)

こわれた鋤、折れた手の骨
破棄した条約、やぶった誓い
Broken hands on broken ploughs
Broken treaties, broken vows ('Everything Is Broken', p. 331)

鐘を鳴らせ、やさしきマルタよ
貧しき男の息子のために
Ring them bells Sweet Martha
For the poor man's son ('Ring Them Bells', p. 333)

正と邪との隔たりが
崩れつつある
And they're breaking down the distance
Between right and wrong ('Ring Them Bells', p. 334)

人生に失敗はない、という者もいる
そうともいえる、そう見えるときはある
There are no mistakes in life some people say
And it's true sometimes you can see it that way ('Man in the Long Black Coat', p. 335)

温かみなど、まるでないやつ
この、うぬぼれという病
Nothing about it that's sweet
The disease of conceit ('Disease of Conceit', p. 341)

自分のような善人に
死がくるなんて信じなくなり
Give you the idea that
You're too good to die ('Disease of Conceit', p. 343)

人は狂態、時代は異様
動きが取れない、おれは圏外
People are crazy and times are strange
I'm locked in tight, I'm out of range ('Things Have Changed', p. 411)

世界中の真実を集めりゃ、ひとつの巨大な嘘になる
まるで魅力のない女を好きになってしまったよ
All the truth in the world adds up to one big lie
I'm in love with a woman who don't even appeal to me ('Things Have Changed', p. 412)

おまえとは、時の炎に包まれたまま
過去の影を生きるだけ
Well we're livin' in the shadows of a fading past
Trapped in the fires of time ('Red River Shore', p. 415)

皆さんは、心を開きすぎたらいけない
あらゆる見方で物を見るのはまずいだろ
Don't open up your mind, boys,
To every conceivable point of view. ('High Water', p. 439)

あんた、いくら偉くなったって
自分以上にゃなれないのよ
As great as you are, man,
You'll never be greater than yourself. ('High Water', p. 440)

正しいことをやろうとするとたくさん邪魔が入るもの
Lot of things can get in the way when you're tryin' to do what's right ('Honest with Me', p.443)

#書評 #英詩 #ボブディラン

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