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【米大統領列伝】第四回 ジェームズ・マディソン大統領(後編)

はじめに

 告知通り、後編では二期目(1813-1817)でジェームズ・マディソンが何をした大統領か追っていきたいと思います。

前回は以下により

閣僚編成

 毎回恒例の閣僚編成は以下の通りです。

副大統領 エルブリッジ・ゲリー(1813–1814)
国務長官 ジェームズ・モンロー(継続–1814)
財務長官 アルバート・ギャラティン (継続–1814)
     ジョージ・キャンベル (1814)
     アレクサンダー・ダラス (1814–1816)
     ウィリアム・クロウフォード(1816–1817)
陸軍長官 ジョン・アームストロング (1813)
     ジェームズ・モンロー (1814–1815)
     ウィリアム・クロウフォード (1815–1816)
司法長官 ウィリアム・ピンクニー (継続–1814)
     リチャード・ラッシュ (1814–1817)
郵政長官 ギデオン・グレンジャー (継続–1814)
     リターン・ジョナサン・メグズ (1814–1817)
海軍長官 ウィリアム・ジョーンズ (1813–1814)
     ベンジャミン・ウィリアムズ・クラウニンシールド(1815–1817)

内政政策

 英国との宣戦布告の為、準備を開始していたマディソン大統領はタカ派の議会に支えられ、宣戦布告の議会手続きを完了させました。これで、米英戦争が開始されることになりました。ただ、米国側は戦費、物資、人員等あらゆる面で準備不足でした。合衆国銀行の更新を見送った為、戦費調達の債券発行もできず、まだ工業化を果たしていない米国での物資も少なく、人員も志願者、解放された黒人、米国側に付いた原住民等の戦闘訓練経験の浅い者達によって形成された軍隊で戦っていました。加えて、海軍の差は歴然だった為、英国の地上上陸を許してしまい、ホワイトハウスを燃やされました。マディソン大統領は州の連帯を保たせて、反撃しようと試みたのですが、東海岸の東部州は英国側に付く議論を始めるというカオス状態でした。戦後、マディソン大統領は国立銀行の重要性を認識し、1816年に渋々第二合衆国銀行設立法案に署名しました。内閣は前回と同様に分裂状態、民主共和党内でも派閥争いが起こり、議会も非難囂々の中で州知事は協力しない状態でマディソン大統領は窮地に陥りました。民兵は州は守るが、国は守らないの一点張り、州政府は財政支援も拒まれて負けるべくして負ける戦いになります。

 但し、後に米大統領になるアンドリュー・ジャクソン氏の活躍もあり、英国を追い払ったという認識が共有されることとなり、英国側も米国に対する躾をして帰り、両者とも勝ったと評価される戦争になりました。1815年に終戦を迎え、マディソン大統領は反省として、連邦党の出すような法案にも著名することで、連邦党の存在意義を無くし、事実上の民主共和党の一党体制になる時期に入ります。

補足:次回のジェームズ・モンロー大統領の回でやると思いますが、「好感情の時代(1816-1825)」と呼ばれる政党対立がほとんどみられない時代に突入することになります。

 マディソン本人も戦争の反省で、第二合衆国銀行を認めたり、軍備の費用負担を認め、国内インフラ投資(道路や河川)を行う姿勢に転じます。

軍事・外交

1812年米英戦争

 英国との外交交渉でカナダ侵攻を外交カードに使っていましたが、効果はありませんでした。英国側は欧州でのナポレオン戦争に力を入れたかった為、宣戦布告される2日前に妥協として、米国船員を強制徴用することを止めたが、時は既に遅く、マディソン大統領は宣戦布告に踏み切りました。

 英国は再び、米国と欧州との戦いにより、戦力は分断されました。ナポレオン戦争で苦戦していた英国でしたが、米国の準備不足と指揮官の能力不足により、あっという間にワシントンDCまで軍が到着し、ホワイトハウスを燃やしました。

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1814年にホワイトハウスが燃やされる様子

 ここまではいいところ無しのマディソン大統領ですが、ワシントンDCよりも重要な拠点であるルイジアナの確保という課題がまだ残っていました。米国が訓練された英国の軍隊の前にして、勝ち目のない戦いをルイジアナでもみせると思われたが、ニューオーリンズの戦いでのアンドリュー・ジャクソン氏の活躍により、英国軍はルイジアナ占領に失敗し、退却せざるを得ない状況に陥りました。このアンドリュー・ジャクソン氏の活躍に加え、米英戦争の際中にもう一つ重要な戦いとして、エリー湖の湖上戦があり、オリバー・ハザード・ペリー氏の活躍により、五大湖の英国海軍プレゼンスを消すことに成功します。

補足:情報伝達に時間がかかる時代なので、ニューオーリンズの戦いはガン条約締結2週間後に戦うことになりました。米国側70人程の犠牲に対し、英国側は2000人程の犠牲が出たと言われます。

補足:オリバー・ハザード・ペリーとマシュー・ペリーは同じ家族です。両提督は偉大な功績を残してます。

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ニューオーリンズの戦いで指揮をとるアンドリュー・ジャクソン氏

 英国軍側の損害に対する戦争継続のメリットがそがれ、欧州でもナポレオン戦争が落ち着き、1815年にベルギーで結んだガン条約により、終戦を迎えました。ガン条約の特筆すべき点は北東部国境線で外交上の同意です。これにより、米国はカナダ侵攻ではなく、更なる西方地域への進出に注力できるようになりました。ルイジアナの河川を守れただけでなく、英国の監視なく、西部開拓が可能な状態になりました。尚、原住民にとっては厳しい状況になっていきます。

第二次バーバリ戦争(1815年)

 英国との戦いに幕が下りた後、米国は第二次バーバリ戦争に突入しました。米海軍の投入により、敵船の鹵獲に加え、外交交渉で損害賠償請求に応じなければ、街を危害を加える脅迫という組み合わせでアルジェのパシャ(大王)を説得(事実上の脅迫)し、海賊行為をやめさせることに成功しました。

:翌年にに英国もアルジェのパシャと交渉をしましたが、交渉決裂により、結局、街は破壊されました。この時代の艦砲射撃は相手に言うことを聞かせる為に存在するということを忘れてはいけない。

移民政策・奴隷政策

 大きな変更点は見られなかったが、任期終了後に選挙権の無い奴隷の人口比率としての扱いで、4分の3含める妥協案を出すも通らなかった。

教育

 大きな変更点は見られなかった。

経済

 米英戦争もあり、国内経済における工業産業の重要性が見直され、経済的自立を果たす大きなきっかけになりました。第二合衆国銀行も認められ、国内の景気は回復する方向へ向かう流れになります。戦後、産業革命に突入したことも大きな要因になります。

大統領辞任後のジェームズ・マディソン

 任期終了後、マディソン氏は妻と一緒にプランテーションのあるモントピリアにて隠居生活を送ります。しかし、プランテーション運営で金欠に陥り、過去に書いたメモを加工して出版するなどして、食い繋いでます。尚、加工というより、改ざんという表現の方が正しく、過去の不都合な事実を書き換えてました。政界復帰をするも、現役の指導層からはそこまで重視されることはありませんでした。1836年に死去。モントピリアにあるマディソン家墓地にて、埋葬されました。

死後の評価

 不要な戦争を行ったとして、批難する識者も多いが、米国の進むべき方向性を認識する機会だったことに価値があるとする識者もいます。地政学的には、ルイジアナの防衛に成功したことに加え、英国との国境策定も出来た上、西部開拓に向けた準備までできたので、戦争そのものの持つ意味よりも、取り決めを行う外交交渉テーブルでの取り決めに大きな意義があったと思われます。

あとがき

 ジェームズ・マディソンの回は今回で終わりです。米英戦争に対する評価は難しく、戦争が無くても、米国は同じ道を辿ることができたのだろうかという問いで悩みましたが、戦争があったからこそ、国立銀行の役割を果たす合衆国銀行の重要性が見直されたり、産業革命を起こす流れになったり、その後の米国の拡大に大きな功績を残したことは間違いないです。次回からジェームズ・モンロー前編に入ります。

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