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【米大統領列伝】第五回 ジェームズ・モンロー大統領(中編)

はじめに

 告知通り、中編では一期目(1816-1821)でジェームズ・モンローが何をした大統領か追っていきたいと思います。今回は、文字通り200年前の米大統領選挙についての話も出ます。(記事執筆時点2020年で選挙は1820年)

閣僚編成

副大統領 ダニエル・トンプキンズ(1817–1821)
国務長官 ジョン・クィンシー・アダムズ(1817–1821)
財務長官 ウィリアム・クロウフォード(継続–1821)
陸軍長官 ジョン・カルフーン(1817–1821)
司法長官 リチャード・ラッシュ(継続–1817)
     ウィリアム・ワート(1817–1821)
郵政長官 リターン・ジョナサン・メグズ(継続–1821)
海軍長官 ベンジャミン・ウィリアムズ・クラウニンシールド (継続–1818)
     ジョン・カルフーン(1818–1819)
     スミス・トンプソン(1819–1821)

内政政策

 モンローは国内での自身のイメージを良くする為、国内を回っていた。効果はあったが、外交上の成果や5つの州が加盟した影響の方が大きかったと思われる。内政に関しては、政治闘争が少ない時代に突入した為、中身のある政策実行が出来るようになった。ただ、ミズーリ州が合衆国へ加盟する際、上院の議席数を巡る問題が発生した。1820年にミズーリ妥協を引くことで一時しのぎに成功するモンローですが、西部開拓が終わる頃に問題は内戦レベルまで悪化する元凶を作ることになってしまった。

軍事・外交

英国との関係

 1814時、まだ米国と戦争していた英国は、南部州への攻勢をかけるべく、原住民のクリーク族とセミノール族に武器を与えた。これは、第一次セミノール戦争が起きる根本原因になる。クリーク戦争後、ガン条約により、黒人奴隷に引き渡されたフロリダに存在する砦が南部州の人々から「ニグロ砦」と揶揄される。尚、アンドリュー・ジャクソンはスペイン領にある砦を倒すことを画策し、実行した。後に米国側の不法入国者と無法者によるセミノール族に対する各種犯罪(牛を盗んだり、殺人したり、奴隷を盗んだりした)が横行し、セミノール族は我慢の限界を迎え、第一次セミノール戦争に突入しました。

 1818年条約にて、英国と間で北緯49度線を国境線として引いたことにより、米国はいよいよ太平洋に面する地域に拠点を置くことが法的根拠の元で可能になった。

スペインとの関係

 米国は、スペインと原住民のセミノール族との第一次セミノール戦争に突入しました。第一次セミノール戦争の開始時期はいまだに歴史家の間で明確な見解はないが、1816年説をここで使うことにします。戦争の経緯を辿ると、1813-1814年に行われたクリーク戦争にて、アンドリュー・ジャクソンが原住民の民族浄化を行ったことに加え、強制移住させた先例を作ったことにより、クリーク族が存亡の危機に立たされたことに加え、セミノール族の見分けがつかなかった為にセミノール族も殺害した。セミノール族も抵抗し、国境線沿いの米国側の集落を襲うなどした。ジャクソンは先述した「ニグロ砦」を破壊する為に1818年にスペイン領フロリダに侵攻した。セミノール族に武器を与えていた英国商人2人を殺害した上、スペイン側の知事を追放し、スペイン領フロリダを占領した。スペインは、戦う意味を感じなかった為、米国にフロリダを売却する意思をみせたところ、米国側の国務長官ジョン・クィンシー・アダムズと、スペイン側の外務大臣ルイス・デ・オニスによって交渉が行われ、1819年にアダムズ=オニス条約が結ばれた。これにより、フロリダは正式に米国の土地として認められるようになった。

移民政策・奴隷政策

 ミズーリ妥協の過程で奴隷の扱いが再び問題として表面化し、農業産業を支える労働資源として奴隷を扱っていた南部州と工業化真っただ中の奴隷を労働資源として必要としない北部州との間で奴隷を解放すべきの議論が過熱した。

 一方、1816年にアメリカ植民地協会は、解放奴隷をアフリカに帰還させる事業も提唱され、リベリアという国を作る動きが始まります。アフリカ帰還も順調に進み(1万人程にとどまるものの)、リベリアも景気が順調に成長した為、1847年にリベリアが独立国として誕生した。但し、米国に残った黒人解放奴隷は以前として、厳しい状況が続きました。とは言っても、アフリカの部族の抵抗され、土地を獲得する為に、武力で脅迫する一面や、モンローの面子を守る為に将校らによる過激な行動もみられた。リベリアの首都はモンローにちなんで、モンロヴィアと命名されることになりました。リベリアへ移住した解放奴隷による現地民の差別という新たな問題も浮上するなど後世で問題になる事案の元凶を作ることになった側面もあります。

自分の見解

産業構造の変化により、労働資源として必要なくなったから奴隷を解放した(職にあぶれ、軍に入隊するか南部州に移り住む理由を作った)とみるか、労働資源として必要だから奴隷を所有し続ける(宿、食事等の福利は最低限保障)かに関しては難しい判断です。奴隷から人として認定されても、社会の受け入れ体制はまだ不十分な為、職にあぶれ、結局南部州に移り住んだり、軍に入隊し、最前線で戦わされることになったりと、北部州での解放後の奴隷が社会溶け込むまでにまだ時間が必要でした。勉強して、知識職になれた一部の例外を除き、基本的に南北州の両側にて、人に昇格した奴隷にとって厳しい現実に直面する最初の瞬間と言えるでしょう。ただ、リベリアという解放奴隷の国を作ってまで助けようとする動きもあったのが、唯一の救いだったのかもしれない。

教育

 特に大きな変化は見られなかった。

経済

 北部州では、工業化が進み、より少ない人員でより多くの生産活動が可能になった為、奴隷という過剰人員の扱いに困るようになった。一方、南部州では、農業産業がそのまま続けられていた為、奴隷の労働力なくして、産業基盤の維持ができない状況でした。1812年の米英戦争後、北部州での産業構造の変化が加速した。

 物流に大きな変化をもたらしたカンバーランド道路がオハイオ州に拡張されたことにより、ルイジアナの河川から東海岸まで迂回させる海上交易の方が遠回りにも関わらず、海路の方が速く届く問題が陸の交通路の整備で緩和された。これにより、中西部は工業を主体とした経済圏を築くことが可能になった。カンバーランド道路は1839年にイリノイ州まで繋がることになり、米国の陸上の物流を大きく向上させることになった。

1820年の大統領選挙

ジョージ・ワシントン以来となる事実上の対立候補無しの状況で選挙が行われ、ジェームズ・モンローは選挙人1人を除き、全選挙人の獲得に成功した。モンローに入れなかった選挙人はジョン・クインシー・アダムズに入れており、当人曰く、モンローではなく、アダムズの方が実力者とのことです。事実、二期目でモンロー・ドクトリンと呼ばれるモンロー政権の外交基本方針の策定を行ったのは、アダムズであり、その選挙人の考えは間違っていなかったと言える。

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選挙結果

ジェームズ・モンロー     選挙人231人獲得

ジョン・クインシー・アダムズ 選挙人1人獲得

補足:1820年の選挙では、アラバマ州(3人)、ミズーリ州(3人)、イリノイ州(3人)、ミシシッピ州(3人)、メイン州(9人)が合衆国に加盟した。

あとがき

 外交では、モンロー本人よりもアンドリュー・ジャクソンが目立っていましたが、戦争を終結させるようにジョン・クインシー・アダムズをうまく使うことができた点では、モンローも一定の評価をすべきだと思います。多くの州が合衆国に入ったことも印象的な時代です。ただ、モンロー本人もミズーリ妥協が後に内戦に発展するとは、思いもしなかっただろうと思わずにはいられない。次回はジェームズ・モンローが二期目に何をした大統領かということに加え、大統領辞職後の動向も含めての話になります。(モンロー・ドクトリンは二期目の話)

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