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終末予言

怯えていた終末予言

昨今、終末論が世をにぎわせております。
非常に怖い予言が多々散見されており、実際に地震も災害も増え、どのように生きて行ったらいいか不安に思う人が多いことと存じます。

話は少し変わりますが、私自身、職業柄もあり、東洋の医学などを通じて精神世界、神霊界、心理学、哲学、また自然とは何か、人間とは何かを強制的に考えさせられる機会を得、幼少期にはカルト宗教によって酷い人間の様を見せつけられ、「神仏とは何か」「神仏は信用できない」
という、ある種の信仰を拒絶する生活を長年しておりましたが、自然とそれらの方向に自分の心が向くようになり、いつの間にかそれらについて考えている間、様々な出来事を経験しはじめました。

不思議な夢

ある時、夢を見ました。それは、私がたくさんの人を見下ろすような位置に浮いていて、大勢の知らない人たちが街で歩いていると、
行き交う人たちと肩がぶつかり、暴言を吐き合い、

「殺す」
「ぶんなぐってやる」

などという、馬事雑言を吹き出しに乗せて多くの人たちが
出し合っている様子でした。

漫画のように一人の口から吹き出しが出ると、それがたくさん集まって固まって大きくなり、それが広がってやがて一つの吹き出しのようになりました。

その様子を見ていたとき、私の近くにお釈迦様か大日如来かがやってきて、私を空の上の方に引き上げました。

すると、街の様子は一変し、街ゆく彼らたちの吹き出しは

「悲しい」
「苦しい」
「助けて」

と、一気に変わり、それがまた一つの吹き出しに固まりました。

「彼らは、苦しみのあまりに暴言を吐きます」

と言われているようでした。

事実、心理学では私たちが暴力的に解決する裏側には、人間の深層に「悲しみ」や「憎しみ」が土台にあり、怒る必要がないことで怒り、無自覚にも
人を傷つけてしまう、そういう側面があるとされています。

私たちは、怒りを通じて自分の苦しみや悲しみを知ることが本当はできるのかもしれません。

ですが、私たち自身は本当の自分の苦しみや悲しみを知ろうとはせず、自分のことであっても見て見ぬふりをしてしまうことが多々あります。
自分が弱いと【思い込んでいる】からです。

この怒りや悲しみが、私たちに終末予言を起こさせている、としたら、みなさまはどう感じるでしょうか。

不思議な体験

私自身の不思議な体験で転機が起きたのは、2018年です。
ある時たまたま出会った戦没慰霊碑がやたらと気になり、手を合わせていたところ【来年から人がたくさん死ぬ】と、頭に響いてきました。
私はそれまで神仏の声を聞いたことはありましたが、絶対に信用していませんでした。わたしにそんな声が聞こえるほど徳は積んでいません。

しかし、その翌年にコロナが発生し、当時より予言の類を目にすることが増え、また、その頃には終末がなぜ起きるのか、人の欲望というものの
醜さ、浅ましさが理解できていたため、人にもうんざりし、自分すら嫌になり、同時に世界があまりにも殺伐とし、人が恐ろしく変わっていく様子に
【なんで神様は助けないんだ】と、その夜から頭がいっぱいになって、ちょっと気が狂う寸前までいき、寝る寸前まで【神様、私に答えをください】


霊界物語


ある時10年前に読んだ霊界物語をまた読む気になりました。
当時は全く読むことすら苦痛であったこの本を読み進めていくと、この答えがこの本一冊に全て書いてあったのです。

大変驚いた私は、全ての事柄が点と点が繋がり、全てが理解できた気がしました。終末論におびえていたわたしは「弱かった」のです。

なぜ、弱かったのか。

それは【信じなかった】からでした。


神の真実

霊界物語に書かれている神様はまさしく人間でした。様々な困難を自分の弱さを抑え込み、恐怖心と向き合い、ガクガク震える足で、それでも懸命に物事をよい方向に懸命に働きかけ「生きよう」とする神の姿がそこにありました。

私は教えられているようでした。『生きる強さがない』と。

今、世界中に蔓延している神という概念は【万能である】ということのみが先走り、【人間そのものは神の種子】である、ということを説いている教えは限りなく少ないと存じます。

しかし、私たちが現世で神社に祀られている神々はそれぞれが人間と同じように苦しい立場にいながらも懸命に震える足で立ち、震えてでも尚、善の行為を全うする、ただそれだけの働きをしている神様ばかりではありません。

私たちの今生きている現世利益を叶え、そのツケをあの世で払わせる、そういう神様もたくさん存在しています。

ですから、私たちはただ【神様】という言葉に踊らされて自分のすべき努力を忘れてしまってはいけないんだと思います。



内在神

本当の神様の姿

日本には一乗という言葉があります。一乗とは仏教用語で【仏と一体になる】です。海外にはこの思想はありません。全てが神の責任であり、自分がする行為は『神がそうさせた』と解釈されます。

古来の日本人には、自分が恐怖するような状況であっても、ガクガクと震える足で懸命に強がり、虚勢を張って、それでも正しいと思ったことを為す、
それができたと思います。それは、最終的に信じ切っていたからだと思います。自分も神も。

この昔の日本人の姿こそ、本当の神の姿だった

立替立て直しの神の真実

国常立尊と天之御中主神

【神は万能である】という価値観に溺れすぎ、神依存になってしまう昨今では、何かを神様のせいにし、神様のおかげとする傾向がありますが、
今、世の立て直しを始められた神様は、霊界物語にあるように《神は自分を助けるものを助ける》という神様です。

ですから、本来は依存心をもち、自分の努力を忘れて弱くてもいけませんし、人を欺いたり、つらい思いをさせたりもしてはいけない、

今、世の中を変えようとしている神は、善悪二元論を超越した神であり、自分の努力があって絶望の寸で、9割9分で助けてくれる、という、世間から見たら非常に厳しい神です。この神が国常立尊の神であり、天之御中主神なのです。天と地の働きをしているだけで、同じ働きをしています。

そして、この神様のすごさは【人間を心底信じてくれている】神様だということです。

ですから、過ちを認め、よい考えを持ち、真面目に生きていく人たちにとっては現世はつらい世の中であっても、この神様はいくら悪いことをしていても、反省し、自分の行いを振り返り、善に帰った人間は許されますが、まがつ神と言われる程度の低い他の神様は、怒り狂い、裏切りを許さず、現世利益ばかりをかなえた人間の代償を必ずあの世で払わせます。

そして、神のせいではなく、人間の【エゴである】ということすら教えてくれず、知らず知らずに人間を奴隷にさせています。

国常立尊の世のはじまり

国常立尊という神は、今の盤古神王政権に移り変わる際、あまりにも厳しく神人に当ったため、この厳しさから心が離れた神人たちによる政権交代があり、そこから根の国底の国(地獄)に落とされた神です。ですから、地獄の閻魔大王=国常立尊とも言われていて、キリスト教ではサタン、ともしょうされているのかもしれません。


その国常立尊の神政をもう一度復活させるために善神が地球で活動し、長い期間をかけ新しい政権復興が始まることをミロクの世とされている、と書かれています。

国常立尊は神人たちの過ちを自らの過ちと、過ちを犯した分だけ自分の頭皮の髪の毛を引きちぎり、後ろ髪は血だらけになるほどだったと記述があります。それほど、自分で責任をとる態度が強く、慈悲深い神なのです。

これを知り、神が万能ではなくむしろ苦悩してこの世の中を眺め、一心によくなるように祈って人々を変えようとしている、と理解したことで終末が怖くなくなったのです。霊界物語の神諭に

【世の建て替え立て直しを恐れる人々よ。神の御心を省み、よく悔い改め、よく悟り、神恩を畏み(おそれ)、善悪を恥じ、従順にただ神に奉仕し、
その天賊の天職を尽くすをもって心とせよ】

とあります。



現世での仕事=神への奉仕

神に奉仕することは、ただ祈ることだけではありません。
私たちがこの世の中で与えられている仕事、すべて誰かの天職であり、神の奉仕です。ですから、宗教は入ってもいいし、入らなくてもいいのです。宗教云々はこれらの行為の延長であって【手段】でしかありません。

一生懸命働いてお金を稼ぐことで、社会をよくしていくことこそが奉仕であって、善であると思います。ですから、自分がしている仕事、している行動、ありとあらゆるものをよくすることこそが今、最も必要だと思います。


気づくこと

自分を信じるために必要なこと

それぞれの心、環境、肉体に与えられたものに気づき、あるものに感謝し、反省し、省みる気持ちが大事であって、その延長に神がある、とわたしは思います。

最後には神様が助けてくださる】という、絶対的な安心感が人間には必要です。そのための「信」を養うために必要な行為が【祈り】であり、【各々の努力】です。


『自分は何か間違ってはいなかったか』を常に問い、一生懸命に現実に向き合うために常に前を向き、常に恐れ、常に悟ることで不安はなくなります。
不安を無くすために必要なことは信じることであり、必要な真実です。

人間の不安は知らない(無知)からはじまる

その真実とは【自分の内側にもつながる神様がいる】ということであり、神人合一できる、ということです。何故なら、私たちはその人間を生み出した神の種子だからです。

それを【内在神】とも言います。


内在神に気づいて、自分の為に一生懸命働くこと

努力は何かといえば、与えられた場所、つまり家庭、学校、会社で限りなく自分の力を奉仕し、お金をもらい、そして、家庭や社会を守り、笑顔を絶えない家庭や社会に対するひとりひとりの努力が必要なことなのではないかと考えています。

この世界に、必要なのは愛です、と無宗教家が説いているならば、
その本質は自分たち自らの内側に既に存在しており、その存在しているものを見つけるだけで十分です。



愛を知る

愛というものは、自分を愛することができてはじめて理解できるのです。
ですから、矛盾したように聞こえますが愛を知る人というのは、人の中に神を見ることができ、その神を大事にすることができる人は神に愛される、というごくごくシンプルなことだったのです。

その輪が広がって、はじめてこの社会は変わっていくのだと思います。

つまり、今しあわせでないならば、一霊四魂、つまり奇魂、幸魂、和魂、荒魂などのそれぞれの資質を高める努力をしつつ、この実生活に活かし、勇気を持つべき時には勇気を持ち、反省すべきことは反省し、智慧を付けるために勉強する、というごく当たり前のことのどれかと向き合う時にあるのだと思います。



大災害が起きる理由

大災害というのは、人のネガティブな思いが広がって出てくることである、とあります。妬み嫉み恨みがSNSが盛んになった今、昔以上に感じやすくなり、人と自分を比べて劣っているような気がしたり、自分の持っているものが人の持っているものより粗末に感じたりしやすいです。

しかし、私たちそれぞれが持っているものというものはそういう目に見える限定的なものではなく、もっと大きな価値のあるものが個々に与えられているのだと思うのです。

まず、最初にそれを知ることこそが自分を愛して、自分をしあわせにすることだと思うのです。それをしていかなければ、私たちはいつまでも不安がつきまとい、自分を信じることもできないで、依存するしかなくなってしまうのです。

その依存こそが、恨みつらみ妬みの本性です。


出来ることだけでいい

大本教の開祖である出口直は、立替立て直しの際に起きる悲惨な大難を小難に、無難にするため多くの人々の為に祈り、自分の体を使って過酷な状況の中、祈り続けました。

多くの有能な霊能力者は、レベルの高い人ほど自分の身を犠牲にして自分の肉体をすり減らしてでも懸命に人の為に奉仕活動を続けています。


それは、あまりにもこの世界の立替立て直しの時に起きる被害が我々の想像の範疇を超えているからです。


自分ひとりの小さな力や目に見えない働きであっても、ひとりひとりが何か自分にできることをするだけで、社会に蔓延する小さな声が集まってできた大きな吹き出しの言葉が変わり、世の中が明るくなるのだと教えてくれているのだと思うのです。

だから、人を笑顔にするとか人に気を配るとかそういう人に親切にする心があればあるほど、その人の周りには吹き出しの文言がいい言葉に変わり、大きな吹き出しの波動は一気に変化するのです。


ですから、終末論におびえている皆様のご心中は経験しているわたしは理解できますが、最後まで自分のすべき努力を放棄せず、色んな恐怖心を煽り、人心の心を脅かす邪神も存在していますので、それらに狂うことなく、自分のすべきことは何か、また、いくら間違っている、と他人が言ったとしても、自分の正しいと思うことをやり遂げていただきたいと思います。


疑い続ける

しかし、一方でいろんなことをいろんな人が言う時代になりました。

前述した通り、まがつ神と言われる邪神が蔓延し、自分がしていることが知らずに地獄の行為であることも多々あります。

ですから、自分が見聞きするすべてに注意喚起し、お釈迦様が言われていたように【私の話は信じるな。正しいと思ったものだけを信じろ】という言葉にあるように、SNSや多くのサイトで発信される様々な言葉を最後の最後まで自分で、自分自身の考えをもって他者や社会の声を十分に自分で精査し、
自分のすべきことに向かって懸命に生きる希望を持てるように、お祈りいたします。


強くなるという希望


知らない、ということは人を弱くさせてしまいます。ですが、畏れずに自分の弱さを知ることは、『こんなに強い自分がいる』という真実ともつながっています。


ですから、与えられた情報を鵜呑みにするだけでなく、私が書いたことに書かれている疑問や問題点があったなら、是非、自分で考えて気付いてみてほしいなと思います。

その気づきの1つ1つが、自分の本当の姿、本当の真実につながると私は経験上理解しています

そして、終末におびえずに自分ができること、正しいと思うことをただひたすら行っていけば、必ず良き方向に導かれていくと思います。

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