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『目の見えない人は世界をどう見ているのか』ノート


伊藤亜紗著
光文社新書
 
 
 目が見えないことと目をつぶることに違いがあることを、私たちは通常意識しない。というより両目をアイマスクで塞ぐと、目の見えない人の体験が出来ると思い込んでいる。それに対して著者は「視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解」だという。それは単なる引き算ではなく、見えないことと目をつぶることは全く違うというのである。そして著者は、「見えている状態を基準として、そこから視角情報を引いた状態」ではなく、視角抜きで成立している体そのものに変身したい。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいという。

 その理解の手がかりとして、生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」という概念を使い説明する。その内容はほとんど哲学だが、それぞれの生き物は、身を構成する主体であり、個々の主体は、周りの事物に意味を与えてそれによって自分にとっての世界を構成している。この「自分にとっての世界」=「環世界」である。それは客観的な世界ではなく、自分にとって、またその時々の状況にとって必要なものから作り上げた、一種の〝イリュージョン〟だという。そしてモンシロチョウたちが見ている世界を例に挙げる。
 
 著者の勤務先である東京工業大学大岡山キャンパスの自分の研究室で、木下路徳さんという生まれつき弱視で16歳の時に失明し、現在は全盲の方へのインタビューをするために、大岡山駅の改札で待ち合わせをし、木下さんと交差点をわたってすぐの大学正門を抜け、研究室のある西9号館に向かって歩き始めたときのこと。
 木下さんは、「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」と言ったのに著者は驚く。毎日のようその坂道を行き来していた自分にとっては、それはただの『坂道』でしかなかったのである。
 著者にとっては、大岡山駅という出発点から、西9号館という目的地をつなぐ道順の一部でしかなく、空間的にも意味的にも他の空間や道から分節化された「部分」でしかなかった。それに対して木下さんが口にしたのは、もっと俯瞰的で空間全体を捉えるイメージだったことに驚くのである。
 
 中途失明の難波創太さんはさんは視力を失ったことで、都市空間による「振り付け」から解放されたことについて述べている。見えない世界は情報量が少なく、コンビニに入っても、目が見えた頃はいろんな美味しそうなものが目に止まったりしていたが、いまはそういうことはないという。
 コンビニの店内は、商品の配列など、売上げを最大化するための「振り付け」が最も周到に計算された空間である。目的外の余計なものまでつい買ってしまうこともある。
 しかし難波さんはコンビニに踊らされることがなくなったという。
 
 そのほか、視覚障害者のブラインドサーフィンや自転車競技、ブラインドサッカー、走り高跳びなどの選手の話や、目が見えない人が絵画を見ることを一般化しようとする運動など、視角障害者の世界には私たち晴眼者が想像もできない世界があることがわかった。
 
 現在のわが国の障害者施策においては、「アクセシビリティ」が大事とよく言われ、福祉は「情報への配慮」で溢れている。例えば点字ブロック、横断歩道の音響信号もそうだ。また人的サービスも情報に主眼が置かれている。例えば、図書館での対面朗読サービス等。確かに「情報のための福祉」は障害者にとって不可欠である。
 このような情報における福祉施策の充実はもちろん重要であるが、それだけでは十分ではないのではないか。私たちは本当に視覚障害者の方々の世界を理解しているのであろうかと気付かされた。

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