見出し画像

『書く力――加藤周一の名文に学ぶ』ノート

鷲巣 力著
集英社新書

 加藤周一は1919年に東京に生まれた。東京大学医学部に進学したが、在学中から文学に大きな関心を持っていた。一般に評論家や著述家と思われているが、医学博士でもあり、戦後は日米原子爆弾影響合同調査団の一員として被爆の実態調査のために広島に赴いている。
 この人の事を書きはじめると、あまりに幅広い分野での活動をしているので、とてもここではとても紹介しきれない。加藤周一は戦後の第一級の知識人であり思想家であると私は捉えている。

 私が加藤周一の文章を初めて読んだのは、朝日新聞夕刊に連載されていた『山中人閒話(さんちゅうじんかんわ)』という時事評論である。大学の図書館で授業の合間の時間つぶしに開いた新聞で読んだのが加藤周一の文章との出会いである。硬軟両様の幅広いテーマと論の進め方、含意豊富な文章の素晴らしさに惹かれ、毎回読み続けた。
 このコラムはその後『夕陽妄語(せきようもうご)』と改題され連載は続いた。私はこの『夕陽妄語』(ちくま文庫)や自伝的小説『羊の歌』や『続・羊の歌』(ともに朝日ジャーナルに連載。のち岩波新書)を古本屋で見つけては貪るように読んでいた。いまでも〝加藤周一〟という名前を見ると、気になって仕方がない。

 著者の鷲巣力は編集者として加藤周一を担当していたそうだが、『加藤周一はいかにして〝加藤周一〟となったか』(岩波書店刊)という本を書くほどで、まさに加藤周一研究の第一人者である。

 この本の書名は『書く力』であって、『書き方』とはなっていない。鷲巣は加藤周一の数多くの著作の中からさして長くない文章を選んで、その文章の構成を分析して、読者に的確な文章表現のための視点を提示する。
 さらには加藤周一の文章を解体・解題し、その背景にある加藤の膨大な知識と幅広くも一貫した見識を提示することで、読者に加藤周一の明晰でいて味わい深い文章を理解したという思いにさせてくれる。

 加藤周一の人となりとその見識を示している文章を二つ取り上げてみる。

「核兵器と戦争、非核と平和は、限りなく近くみえる。それぞれが殆ど相互に交換できる二つの概念の組み合わせでもあるかのように。
 しかしそれは一種の錯覚である。戦争がなくなれば核兵器の用いられることもないだろうが、核兵器がなくなれば戦争がなくなるわけではない。…中略…反核と反戦は、『枕草子』のいう〝近くて遠きもの〟のひとつであろう。」(『書く力』P154)

「核戦争のおこる確率は小さいが、おこれば巨大な災害をもたらす。原子力発電所に大きな事故の起こる確率は小さいがゼロではなく、もしおこればその災害の規模は予測しがたい。一方で核兵器の体系に反対すれば、他方では原子力発電政策の見なおしを検討するのが当然ではなかろうか。」(同P158)

 いま挙げた二つは1999年10月20日付朝日新聞の『夕陽妄語』の「近くて遠きもの・遠くて近きもの」という題で書かれた文章である。清少納言の『枕草子』のお題を借りて、現代に展開している。東日本大震災発災のおよそ10年前に書かれた文章であるが、福島第一原発の事故を予見したような文章である。

 もう一つ引用する。
「私にとってほんとうであったことは、おそらく他人にとってもほんとうである。だれでもどんな環境のなかでも、美しい時間をもち得るし、その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものと比較しても測り知ることができない。したがってひとびとがそういう時間をもつ可能性を破壊すること、殊にそれを物理的に破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は賛成しないのである。」(同P194)
 この文章は、加藤が信州追分の村の外れで、高い空と秋草の径が限りなく美しく見えた時のことを書き留めた文章に続いており、自分の生涯にそれ以外何もないとしても、この美しい時間のある限りただそのためにだけでも生きてゆきたい――太平洋戦争がはじまった頃、いつまで生きのびられるかわからないと思いながら加藤が毎日を送っていた頃のことである。
 また戦後、東京の喫茶店で、茫然として自分の世界のすべてを忘れるほど、ある人の顔が美しく見えたこともある、と書いている。そして「計画して手に入れることができず、忽ち過ぎ去ってしまうものが、私の人生にとってどんな役にたち得るだろうか。たしかに人生の設計には役立たない。…中略…美しい時間が人生にどう役立つかではなく、それが私の人生にどんな意味をあたえるかということだけ、根本的な問題であるように私には思われる。」
 これらの文に続いて、先に引用した死刑や戦争に反対という文章が結論として提示されるのである。

〝書く力〟は、文章技術の問題だけではなく、先人たちの名文を読み、味わい、己の知識と経験の積み重ね、さらには森羅万象を観察し、感性を磨くことでしか身につかないことを教えてくれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?