『影の現象学』ノート
河合隼雄著
講談社学術文庫
河合隼雄(1928年~2007年)は、ユング派の著名な分析心理学者であり、心理療法家である。
私は学生時代から河合隼雄の本を愛読してきた。論考や随筆、対談集など多くの著作があるが、どれも興味深く、本を開くたびに文章や言葉の一つ一つが心や身体に染みこんできて、もやもやした心の中が整理されるような気がしていたのだ。
先週、『むらさきのスカートの女』を取り上げた時、この本のことを思い出して再読した。奥付をみると、初版は昭和62(1987)年、私が買って読んだのは平成3(1991)年の11月であった。読んでからもう30年以上経っている。黄色の付箋も茶色に変わり、マーカーや赤ボールペンの線や書き込みも色褪せている。再読してみると、自分の考え方や生き方にいかに多くの示唆を受けたか、いまさらながら感じる。
「影(シャドオ)」とは何か――著者は世界中の多くの民族に伝承されてきた神話や語り継がれてきた物語をはじめとして、宗教の経典や近世・近代・現代の多くの作家の著作を引用し、それらに出てくる「影」について考察を拡げ、心理学の観点から、さらには臨床家として多くの症例も取り上げて、この「影」の問題を掘り下げている。
この本の著述に従って「影」がどういうものかを摘記すると、まず「光に当たってできる人間の影(影法師)」、自我に対する「魂」、意識の対概念である「無意識」あるいは「夢」などがある。
さらには「普遍的影=悪そのもの」、影の存在、影の病としての「二重身(ドッペルゲンガー)」や「二重人格」、「分身体験」、「離人症」、さらには江戸時代の影の病としての「離魂病」、西洋の戯曲などに出てくる「トリックスター(道化役)」などを取り上げている。
第3章の「影の世界」では。この世界を天と地、昼と夜、光と闇、白と黒のように二分して考えるとき、影の世界は後者のほうによって表されるものだと著者は言う。しかし、白と黒は同一視されることもあり、単なる二分法ではないということを、人間の存在に置き換えて論じている。
このような白と黒の微妙な関係について、谷川俊太郎の「灰についての私見」と題した文章を引用している。ちょっと長いがここに書き写してみる。
「どんなに白い白も、ほんとうの白であったためしはない。一点の翳りもない白の中に、目に見えぬ微少な黒がかくれていて、それは常に白の構造そのものである。白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐむと理解される。存在の瞬間から白はすでに黒へと生き始めているのだ」(『灰についての私見』抜粋)
この詩の一節を読者の皆さんがどのように捉え、解釈するか。詩を解釈し解説することほど野暮なことはないので省略するが、皆さんが感じたことを聞いてみたい気もする。
第5章では、昭和58(1983)年に公開された映画『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督作品)の下敷きとなったロレンス・ヴァン・デル・ポストの著作『A Bar of Shadow』(由良君美訳:邦題『影の獄にて』)を取り上げ、捕虜になったイギリス人であるジョン・ロレンスと鬼軍曹ハラの会話などを取り上げ、河合は影との対話、東洋と西洋との対話という点で示唆的であると評している。
同じくこの章で、ユングの自伝の付録として公開された『死者への七つの語らい』で、「アブラクサス」――ラテンロックバンドのサンタナのアルバムに『Abraxas(邦題:天の守護神)』というのがあった――という神が出てくる。
この神は、「原初の両性具有」の存在としてあらゆる相反するものを包摂する存在である。この存在についてその属性が多く列挙されているが、例えば次のようなものである。
「それは愛であり、その殺害者である。それは聖者であり、その裏切り者である……(以下略)」。
本書は学術書であり、この程度の文字数で解説できるものではなく、すらすらと読める内容では必ずしもないが、内容は示唆に富んでいる。
「影」は私たちに深い洞察力や将来を見通す眼を与えてくれ、多くの芸術家に力を貸してくれる協力者でもあるとも河合は述べている。『むらさきのスカートの女』はそれに連なる作品の一つであろう。
解説を書いている遠藤周作は、冒頭に「これは名著である。少なくとも私は、はじめてこの本を読み終わったときに味わったなんとも言えぬ充実感は今でも忘れられない」と書き、解説の末尾にも、「この本は戦後の名著の一つなのだ」と書いている。
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