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『文豪たちが書いた酒の名作短編集』ノート

坂口安吾、夢野久作、芥川龍之介、福澤諭吉、太宰治ほか
彩図社刊
 
 私が小学生にあがる前のことだ。
 自宅の庭にはわりと大きな葡萄棚があった。その実は熟しても酸っぱくて食べられなかった。それを父は、実が紫に変わると摘み取って白い瀬戸物の蓋付きの大きな器に入れて、摺子木で皮ごと潰していた。
 何日かおきに父は茶箪笥の上に置いた容器の蓋を開けて、匙で掬って味見をしていた。それを見ていた私は、親がいないときに脚立に乗って蓋を開け、匙で掬ってなめてみた。いい匂いだったのは覚えているが、酸っぱかったのか苦かったのか、味は覚えていない――母親から揺り起こされて、水を飲まされて目が覚めた。
 母からこの器の中のものを飲んだのかと訊かれ私は頷いた。私が座敷で真っ赤な顔をして仰向けに倒れていたので、母が驚いたそうだ。
 後で母に訊くと、父が密造酒を作っていたのだ。
 この密造葡萄酒が、私が生まれて初めて舐めた酒であった。
 それから長じて人並みに酒を嗜むようにはなったが、酒の上での失敗談はないと思うが、覚えていないだけかもしれない。
 
 さて今回取り上げた本は、錚々たる大作家の酒にまつわる短編小説やエッセイのアンソロジーである。
 
 無頼派で有名な坂口安吾の「酒のあとさき」というエッセイでは、気持ちよく飲めるのは高級のコニャックとウイスキーだけだが、今はもう手にはいらず、飲むよしもないと書き、少量で酔えるものは、味覚にかかわらず良いという。そして中原中也と、無類の大酒飲みの17歳の少女と自分との不思議な関係を書き記している。
 このエッセイがいつ頃書かれたのかは、手元の安吾の年表には載っていないので不明だが、日本酒はまずいと言っていることから推測して、戦後すぐのことだと考えられる。出典の坂口安吾全集(筑摩書房刊)を見れば分かるだろうが、あいにく手元にない。若い頃、私は安吾の『日本文化私観』や『堕落論』に惹かれ何度も読み返していた。
 
『放浪記』や『浮雲』で有名な小説家の林芙美子は、「孤独でかたむける酒の味は仲々よろしい」と書いている一方で、3、4人の気のあった男友達と手が盃へひとりでに進んでゆくような愉しい酒も好きだと書いている。逆に宴会で酒を呑むほどばかばかしいものはないという。父親は子どもの芙美子に酒をかけた茶漬けを食わせるような乱暴なところがあったせいか、酒は見るのも厭だったそうだ。それが長じて大いに酒好きになるとは、血は争えないということか。
 
 福澤諭吉の『福翁自伝』には、酒について、「自分は生まれたまま物心の出来た時から自然に数奇(好き)でした」と書き、「外に何も法外な事は働かず行状は先ず正しい積もりでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては殆ど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宜しい」と告白している。
 酔った上での失敗談は、時代もあろうが型破りで、面白いという次元を超えており、あの福澤諭吉がまさかと呆れるばかりだ。
 
 太宰治の「酒の追憶」というエッセイでは、酒はお燗して、小さい盃でチビチビ飲むものにきまっており、冷や酒を飲むのは陰惨きわまる犯罪とまで言っている。と言いつつ、ある人との会話のなかで太宰はむかっ腹を立て、一升瓶から冷や酒をがぶがぶと水のように手酌で飲んだうえでの失敗談を書いている。
 日本酒の質もあろうが時代は変わったものだ。いま、美味しい酒といえば、好みもあろうが、燗酒でなく冷酒だろう。同じく太宰の「禁酒の心」というエッセイの最後には、「なんとも酒は、魔物である」と書いている。
 
 芥川龍之介の「酒虫(しゅちゅう)」という中国が舞台の短編では、酒好きという言葉では表せないほど酒を飲むが一向に酔わない劉という男が、ある怪しげな僧からそれは病気だと言われ、治療法を教わる。日向で寝転んでいるだけで、その酒虫はお前の体から出ていくと言うのだ。その通りにすると、自分の体からその酒虫が出ていき、治療の効目があったのはよいが、それ以降、劉はぱったりと酒が飲めなくなり、健康を害してしまい、家産も傾いてしまう。
 そして、劉にとって酒虫は〝福〟だったのか〝病〟だったのかとまわりの人々の論争になる。
 この物語は『聊斎志異』所収の「酒蟲」を典拠としており、その比較研究もある。
 
 この本には最初に挙げた著者以外に、童話作家の小川未明、佐々木邦、岡本かの子、梅崎春生、宮本百合子、宮沢賢治、豊島与志雄の小説やエッセイが収められている。
 最後に一言。「なぜ酒をのむかと云えば、なぜ生きながらえるかと同じ事であるらしい」――坂口安吾の言葉だ。

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