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『正欲』ノート

朝井リョウ
新潮文庫

 書名からして難しい。手元の辞書にはない。正しい欲望という意味か。そういうものが果たしてあるのかどうかわからないが……。

 本作品の冒頭にあるのは、書き手から読者へのメッセージである。
「世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体がいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていく」ことに、この書き手は気づいたという。
 語学を身につける、能力を上げる、健康になる、などなど――それらの情報はゴールに辿り着くための足場であり、その大きなゴールを端的に表現すると、「明日死なないこと」。逆に言えば、「死にたくない」……何度も繰り返し出てくる……人のために必要な情報が細かく分裂して散らばっているというのだ。
確かに明日も生きていることを前提にいろんな分野の情報などが流され、消費されているのは間違いないであろう。
 人は皆、余命宣告を受けている人でさえ、「明日死ぬことはない」と思っている。ましてや自分は健康だと思っている人間には〝メメント・モリ〟なんて意識は存在しないのだ。

 もう一つはいまどきの〝多様性〟について。想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。この単語はそんな人たちがよく使う言葉。ほっといてほしいと思っているのに社会はほっといてくれない。だから、「社会からほっとかれるためには社会の一員になることが最も手っ取り早いということです」。これは皮肉だけど真実だと著者はいう。
 筆者は、〝カミングアウト〟という言葉にはどうしても違和感があり、なじめない(個人の感想です)。

 そしてこのメッセージの最後に、「ここまで読んだら、これを私に返してください。そのあとのことは、実際の声で、直接伝えようと思います。」でこの前置き風の文章が終わり、一種のメタフィクションともいえる物語が始まる。

 このような書き方からして読者を突き放しつつ、続きを読ませる作者の仕掛けにまんまと乗せられてしまう。

 物語は、児童ポルノ摘発のニュース見出しと、その事件の三人の容疑者の身元や職業、背景などが捜査員からの情報で埋め尽くされ、とおり一遍のマスコミの〝正義〟の論調が最初に提示される。

 最初の章の主要登場人物は寺井啓喜。その人名の下に「2019年5月1日まで、515日」と書かれている。この日付は令和という年号が始まる日で、その日まで515日と書いてある。ちなみにこの日は2017年12月2日土曜日だ。
 この後の章も人名の後に「2019年5月1日まで、○○日」、また「2019年5月1日から、●●日」と書かれている。
 各章同じ日付もあり、この時点ではそれぞれ何の関係もない人たちの物語が同時進行的に綴られる。

 登場人物に少しだけ触れると、寺井啓喜の仕事は検事。妻の由美と小学校3年生の息子・泰希との3人家族。この息子は現在不登校だ。
 泰希は不登校の子が通う「らいおんキッズ」で知り合った同学年の不登校生・富吉彰良と意気投合し、一緒にYouTubeを始める。そのチャンネルの名前は、カウントダウン形式の【元号が変わるまであと○●日チャンネル】。時代のアップデートの意味で付けたという。
 二人は自分らが投稿した他愛ない映像のコメント欄にリクエストが書き込まれることを待ちに待っており、できるだけそのリクエストに応えようとする。
 風船早割り対決で負けた方には罰ゲームとして電気あんま(小学生の男同士がやるおふざけ)とか、水中息止め対決をして負けた方には首絞めを、というちょっと変わったというか、投稿者のフェチにまかせたリクエストについても、だ。

 次の登場人物は桐生夏月。いまはイオンモールの寝具売り場に勤める契約社員。転職理由は「睡眠欲は私を裏切らないから」。そして最近目を付けているのは、男子小学生2人が運営しているチャンネル【元号が変わるまであと○●日チャンネル】だ。
 高校3年生の途中で転校していった佐々木啓道と、同級生同士の結婚式で再び出会う。夏月は物心ついたときから、噴出している水の様子に興奮する性癖があり、それは佐々木も同じで、2人とも異性に興味が持てない。そして、2人は同居することになる。
 2人はそのための約束事を取り決める。一つはこの結婚の仕組みを他言せず、お互いの性癖を公開しないこと。二つには他に一緒に暮らしたい人間が現れた場合には真っ先に報告すること。三つ目は自殺禁止、というものだ。
 佐々木は大手食品会社に勤務するサラリーマンで、その就職動機は、「食欲は人を裏切らないから」。

 3人目の主要登場人物は神戸八重子。大学1年生。母親が溺愛していた八重子の兄は国立大学を出て地元の銀行に就職したが、仕事の行き詰まりからか、引きこもりになって2年になる。あるとき、兄がAVを観ているのを知る。
 彼女は男という生き物が気持ち悪い。ただ同じ大学の諸橋大也の視線だけは何故か怖くない。ゼミで消費行動論をとる彼は、「物欲には裏切られないから」という。彼も水が好きだ。
 八重子は大学祭の実行委員となり、これまで当たり前のように行われたミスコンを止めるべきと訴え、実行委員の賛同を得て、テーマを〝繋がり〟とする。

 この互いに何の関わりもないこれらの登場人物が、泰希が友人と始めたYouTubeチャンネルに興味を持つことによってつながり始める。そして、物語は冒頭の事件の報道に収束していくのだ。果たしてこの事件は報道の通りなのだろうか。

 人間は誰でも欲望を持っている。それは生きていく一つのエネルギーであろう。個々人の欲望は様々で、それが正しいのかそうでないかという判断は社会との関わりや規範あるいは法律で規定されるものだ。それに加えて、その人にとっての欲望(正欲)は、他者からみれば異質なものと思えることもあろう。
 ヒトの主な感覚器官である眼・耳・鼻・舌・皮膚さらには身体そのものがそれぞれ快や不快を感じており、それがヒトの感覚として統合され、ある種の欲が生まれる。
 眼で見たいもの、耳で聞く人の声や音楽や環境音、鼻で嗅ぎたい香り、舌で味わう食事などなど、さらにはモノに触れての快感など。すべて欲望だ。

 広く芸術や音楽の世界では多様性が当たり前で、それぞれ好みや好き嫌いがあるのは当然だ。
 人間は、だけではないが、自然界の生き物には全てまったく同じ存在はない。一卵性双生児でさえ、DNAの配列や折りたたまれ方の違いがあること(=遺伝情報の違い)もわかっている。いわばダイバーシティ(多様性)というのは今頃ことさらいうべきものではない。多様性こそ種の生存を支えてきたものだ。
 それをいま流行言葉のように使うだけで時代の先端を走っているような薄っぺらさを、著者は告発しているのだ。

 大也はいう。「自分はあくまで理解する側だって思ってる奴らが一番嫌いだ」。

 物語はそれぞれの登場人物の視点からもう少し複雑に展開するが、朝井リョウは煮ても焼いても食えない作家だ――褒め言葉です。あしからず。
 それにしても、物語の地の文と、情景と会話が次々と入れ籠になって展開する著者の文章は小気味よい。

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