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『人でなしの櫻』ノート

遠田潤子著
講談社刊
 
 刺激的なタイトルと山桜の花に埋もれた表紙に惹かれて手に取った。私の好きな日本画家の長谷川等伯の名前が出てきたこともあるが、書き出しから数ページを読んで引きこまれ、すぐにレジに持って行った。
 
 京都の老舗料亭「たけ井」のオーナーで料理長の竹井康則を父に持つ竹井清秀という日本画家を主人公に、父と子の相克と根深い確執を描いたこの物語は、絵描きと、一流との評価を得ている料理人というある種の芸術家の業の深さを描き、余すところがない。
 
 その物語の軸となるのは、蓮子という女性である。
 蓮子は8歳の時に誘拐され、竹井康則に金で買われ、マンションの一室に11年もの長い間監禁され、外界との接触を禁じられていた。
康則は蓮子に、お前は親に捨てられたと告げ、自分の事をひどい親から守る庇護者だと思い込ませ、自分の作った料理しか食べさせず、いわば自分がこの娘を創りあげるという妄想に駆られていた。
 
 ある時、康則は「帰る」と言い張る蓮子に対して一緒に死んでくれと首を絞め、苦しくて暴れる蓮子に突き飛ばされ、康則は大理石のテーブルに頭を打ち付けて死んでしまう。
 清秀は父の秘書兼運転手の間宮から大変なことが起きたと知らされ、父のマンションに行き、隠し部屋に監禁されていた蓮子を発見する。「ヤスノリ」と名前を呼んで、怖がる蓮子を、清秀は康則の息子だと名乗り、ようやく落ち着かせる。
 そして清秀は蓮子の表情に自分が描きたかった〝無垢〟を見て取り、警察の聴取が終わって帰宅して一気に描き上げる。

 蓮子はその後、家族と再会しても過去のことを全く思い出さず、なじめないまま脅えるばかりで食事も摂らないので、困った家族が清秀に、一緒に食事をして欲しい、そうでなければ衰弱して死んでしまうからと懇願され、仕方なくその役を引き受ける。
 清秀は、何度か食事をするうちに、さらに蓮子に惹かれ、蓮子を描きたいという欲求に抗することができず、「絵のためならなにをしても許されると?」(P62)と自問自答し煩悶する。そしてついに犯罪になると知りながら、蓮子を病院から連れだし、山口県長門市にある蜜柑畑に囲まれた自分の母の産まれ育った家に二人で籠もる。
 
 清秀はがんに冒されており、余命幾ばくもないことを自覚しており、そのことを蓮子にも伝え、自分は死ぬまで蓮子を描きに描くと決意する。その清秀の強い思いに蓮子は応え、心身ともに交わることになる。それは恋愛でもなく、憐憫でも同情でもない。
 
 清秀の父親の康則の生い立ちや人身売買・監禁事件とこの清秀の起こした誘拐事件を題材に、清秀の伯父で小説家の治親は『蓮情』そして、『櫻図』というタイトルのプライベートに踏み込んだいわば内幕暴露ものの小説を書いて発表し、評判を呼んで、テレビ出演や講演のオファーが殺到する事態になる。「人でなしになれる、というのも一つの才能や」(P75)と自分の異母弟の康則を評するが、この男が一番の〝人でなし〟なのではないか。

 著者はこの治親の姿を通して作家としての業の深さ、罪深さを〝人でなし〟の一言で表現しており、この作品はメタフィクションとなっている。
 
 と、書いてきてちょっと迷っているのは、この〝人でなし〟という語の著者の解釈だ。手元にある何冊かの国語辞典を開くと、「人として人らしくない行いをするもの。恩義・人情を解しないもの」、「人として情愛をもたず、恩義などをわきまえない人」など似たりよったりの解説だ。これが普通の解釈や語感だろう。
しかし、清秀の遺作となった『人でなし』という絵を見て、これまで清秀の絵のすべてを扱ってきたギャラリストの浅田檀(まゆみ)は、この絵に描かれた月の光を浴びる女性の姿に〝造物主〟としての君臨を見る。
 これは「人でなし」=「造物主」=「創造者(芸術家)」=「人でなし」という連環として表現される。そこにあらゆる分野で創作に携わる人間の業の深さと自負を表現したかったというのはうがち過ぎであろうか。

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