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オンブラ・マイ・フ〔第4話〕

 高校では音楽部に入った。他にしたいこともなかったので音楽部を選んだのだが、母からは、芸大に行くのに素人のサークルは邪魔になるだけと言われたので、逆に入ってやろうと思った。父は許してくれて、母が譲った。
 僕がピアノをやっていることは言わず、知っている友人にも黙っておいてくれと頼んだ。
 先輩たちにはクラシック好きもいたし、ポピュラー好きもいた。中には何の目的で混声合唱団に入ってきたのかと動機を疑いたくなるような先輩もいたが、みな概して気のいい仲間で、僕は楽しかった。
 一方、女子の先輩たちはうるさく、はしゃぐ新入部員をいつまでも中学生気分でいるんじゃないと怒っていた。男子部員よりはるかに大人で練習にも真剣だった。
 なかでも三年生のピアノ担当の徳永温子先輩は新入部員の憧れだった。練習が終わった後、個室にこもってよく『幻想即興曲』を練習していた。口数が少なく、部員たちとは余り口は聞かなかったが、それが近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
 ある日、徳永先輩から練習後に呼び止められ、小さな声で、あなたはピアノをやっているのになぜ隠しているのと聞かれた。母とは違う髪の匂いがした。怪訝な顔をすると、私も同じ先生に習っていて、あなたのことを聞いたと言った。僕は皆には黙っておいてほしいと頼んだ。

 音楽部恒例の秋の音楽祭に向けての夏合宿があった。僕はその間、鍵盤を触らなくていいと思うだけでも嬉しかった。
 合宿の休憩時間には、先輩たちがにわかのバンドを組んでそれぞれ気に入った曲を披露していた。フォークソングあり、グループサウンズの曲あり、フォークギター二本とピアノしかなかったが、コーラスは皆お手のものだったので、聴き応えがあった。中でも男子の先輩三人がギター二本だけでビートルズの『ヘルプ』を歌った時は、最先端の音楽の楽しさを発見した。僕はこの頃からビートルズを聴くようになった。
 合宿から帰ってきた僕の様子を見て、母は合宿の様子をしつこく聞きたがったが、僕は楽しかったとしか言わなかった。

 二年生になって、新入部員の面接を担当した。まず声の音域と質を聞いてパートを決めるのだが、今年度は男子の入部希望者が多く、女子は十人程度で、今年は不作だとピアノの傍で先輩達が話しているのが聞こえた。
 その中でひとり、西野結衣子という背の高い、新入生とは思えない雰囲気をまとった子がいた。彼女はいい声をしていた。
 ただ、その子の態度がちょっとハナについて、面接の時に、なぜ音楽部に入りたいのかと質問したら、音大志望だからと答えたので、それなら音楽部に入らずにプロのレッスンを受けた方がいいと言ってしまった。一緒に面接をした女子の先輩から、あなたがあんなことを言ったから彼女は入部を断ってきたと怒られ、あなたが入るように説得しなさいと言われてしまった。
 いまさらと思いながらも、夏休み前の終業式の日に、彼女と同じクラスの部員に頼んで部室に来てもらった。その時は部室で話してみようと思っていたのだが、部室で二人きりではちょっと気が臆して、自分が観たかった映画に誘った。メモ紙に、隣町の映画館の場所と題名を書いて、次の日曜日の時間と話もあるからと書いて封筒に入れて渡した。
西野は、その場では封筒を開けようとしなかったので、映画を観に行こう、話もあるしとだけ言うと、黙って部室を出て行った。

 来なくてもかまわないと思っていたが、時間前に彼女は来た。相変わらずにこりともせず、頭だけ下げた。制服だったので、つい笑うと、彼女は何を着たらいいのか分からなかったのでと小さな声で言った。
 僕は映画より、彼女の方が気になって映画の筋は頭に残っておらず、感想を訊かれると困るなと思い、まだ明るかったので行きつけのジャズ喫茶に行こうと誘ったら黙ってついてきた。彼女は制服だったので躊躇ったが、思い切って重いドアを押し開けた。
 店内はタバコの煙と大音量の音の壁が耳、いや身体全体に迫ってきた。ここは二人がけのソファが教室のようにアルテックのスピーカーに向かって並んでおり、壁際が空いていたので、彼女を奥に座らせた。
 僕が好きなレイ・ブライアントの『クバーノ・チャント』のイントロが流れていた。彼女は、ジャズは初めて聴くと言って、曲名の意味を聞かれたが、曲名は関係ない、ジャズは身体で聴くものだと彼女の耳に口を近付けて言った。甘い匂いがした。僕にとって曲名は単なる記号で、聴いてみて好きか嫌いかしかなかった。
 レイ・ブライアントのアルバムが終わると彼女は、帰りますと立ち上がった。入って二十分ほどしか経っていなかったが、引き留めはしなかった。話ができる状況でもなかった。

 新学期が始まってすぐ秋の音楽祭があった。
 夏の合宿の前の音楽祭のメニューを決めるミーティングで、合唱曲は別にして、男声カルテット、ピアノ独奏、ピアノとフルートの合奏、フォークソングなど気の合った者同士でそれぞれ組んでやることになった。
 僕は同級のビートルズマニアの平野君と二人で〈生ギターでビートルズ〉との謳い文句で、『ノーウィージアン・ウッド』と『アンド・アイ・ラヴ・ハー』、『ホワイル・マイギター・ジェントリー・ウィープス』の三曲を演奏した。『ノーウィージアン・ウッド』で使われているシタールの雰囲気を出すために、僕は十二弦ギターを買って調弦を工夫して練習した。本番もなかなかの出来で、アンコールではポールの『イエスタデイ』を歌った。
『ノーウィージアン・ウッド』の紹介の時に、日本語では『ノルウェーの森』となっているが、歌詞を読むと〈ノルウェーの森〉だと全く意味が通らない。〈wood〉だからこれは〈ノルウェー製の家具〉と訳すのが正しいと思うし、この歌詞は、付き合っていたガールフレンドのノルウェー製の家具のある部屋に行ってベッドインを期待していたが、結局は振られた男の事を歌っていると思うと解説をしたら、あとで教頭から余計な解説だと注意をされた。音楽部の指導教師はちょっと離れたところで笑っていた。

 音楽祭の後、三年生が引退して部長選挙があり、僕は部長に選ばれた。
 部の主導権を握った二年生の女子部員達が僕の所に来て、来年の音楽祭で必ずオペレッタやりたいので、西野結衣子を是非音楽部にもう一度勧誘してほしいと頼まれた。彼女は入るつもりで面接に来たのに、入らなかったのはあなたのせいだとまた責められた。
 僕は、渋々承知して彼女に部室に来てもらって、入部してほしいと言った。女子部員も、来年オペレッタを上演したいので是非あなたにソロをやってほしいと頼んだが、西野は結局この時も入るとは言わなかった。

 僕は何とか話をしようと思い、土曜日の練習のあと夕方近く、喫茶店に誘った。
 相変わらず自分からは余りしゃべらないので、僕は自分の好きなピアニストの話をした。ショパンの話をした時に初めて彼女が話に乗ってきた。僕はついピアノを習っていると言ってしまい、そのあと彼女は色々聞いてきたがそれには答えずに店を出た。
 公園のベンチに座って話の続きをと思ったが、芝生の中にあるベンチはカップルが占領していた。僕は空いているベンチを探して座り、話をしようと思ったが、回りを見るとなんだかお互いに落ち着かなくなってしまった。
 彼女が帰りますと言って立ち上がったので、僕はまだ肝心の話をしていないので、反射的に彼女の腕を掴んでしまい、彼女はバランスを崩して僕の膝に乗ってしまう格好になり、眼があった瞬間、彼女の唇に触れてしまった。僕は突き飛ばされ、彼女は走り去ってしまった。

 僕は最初の面接の時の事を謝ろうと思っていた。母から言われたことをつい口に出してしまったことを後悔していた。ただ、僕は音楽部に入っていいのかどうか、彼女のためにどうなのかは本当に迷っていたのだ。だから、入ってくれとは頼むつもりはなかった。来年の春には僕は音楽部の部長も辞めるつもりだったから、オペレッタをやるにしても僕が中心でやるのではないことははっきりしていた。彼女には僕にだけ関心を持ってほしかった。しかし、そう思えば思うほど態度はぎこちなくなり、体は心と反対の振る舞いをしていた。
 彼女と廊下ですれ違っても、寄っても来ず、ほとんど無視という態度だった。先日は失礼なんて事を言っても、まわりから誤解されるだけだし、部室に呼び出す手ももう使えるわけはなく、僕は心底悩んでいたのだ。
 放課後、教員室前の廊下ですれ違った時にまわりには知った顔がなかったので、僕は謝ろうと思い立ち止まったら、彼女も寄って来て僕の家のピアノのことを話し始めた。何故知っているのかとは思ったが、一度弾いてみたいというので、今度の日曜日の午後はレッスンがないからいいよと言うと、僕の腕に手を置いて、嬉しいと初めて僕に笑顔をくれた。

 日曜日の昼前から両親は親戚の結婚式で出かけていた。二階の窓から見ていると、彼女は制服姿で、自転車に乗ってきた。
 ドアを開けると、こんにちはと笑顔を見せてくれた。僕はちょっとドギマギしたが、すぐに背中を見せてレッスン室に案内した。彼女は部屋を見回してグランドピアノを二台もお持ちなんですねと言った。僕は、ベーゼンドルファーは元々母のだが、今は僕が弾いているというと、彼女は神妙な表情で今日はお招きありがとうございますと言ったので、先日のとっさの行動のお詫びをしそびれてしまった。
 弾いていいよと言うと、西野はピアノに向かって両手を合わせて祈るような仕草をして蓋を開け、何度か深呼吸をして、ショパンの『ノクターン第二番』を弾き始めた。緊張しているのか何度か躓き、また最初から弾き始めた。
 弾き終わると、ピアノに向かってありがとうございましたと頭を下げ、ピアノに負けましたと白い頬を上気させて僕に言った。
 今度は僕がベーゼンドルファーの前に座り、ショパンのピアノ独奏曲『英雄ポロネーズ』を弾いた。彼女が傍にいることも忘れて弾いた。弾き終わっても拍手は聞こえなかった。すぐにベートーヴェンのピアノソナタ第八番『悲愴』を久しぶりに弾いた。
 弾き終わって、暫くそのまま座っていた。彼女が拍手をしてくれたので、ピアノの前を離れたら彼女も立ち上がってどちらともなく抱き合った。彼女のボブカットの髪の匂いが僕を満たした。シャンプーの残り香でもなく、もっと強く惹かれる匂いとしか表現ができなかった。彼女は何か言ったが僕には聞こえなかった。僕は熱気を帯びたままの指で彼女の頬をなぞった。声には出さなかったがお詫びのつもりだった。離れ際に、僕は言った。
「もっとピアノを練習しなくちゃね」
「面接の時に、先輩から音大志望なら音楽部に入る必要はないと言われました」
「それは僕が母親から言われたことをそのまま言っただけ」
 正直に答えると、彼女は拳を振り上げたので、その腕を掴みまた抱きしめた。結衣子の髪の匂いが脳髄にまで充満した。耳元で君が好きだと呟いて腕に力を込めた。胸の膨らみを感じ、身体の奥が熱くなった。

 この時から月に二度くらい、レッスンが休みの日か教師の都合で午前中だけの時、家でピアノを弾いたり、二階の僕の部屋でジャズやオペラを聴いたりして二人の時間を過ごした。この頃が一番楽しい時間だったかも知れない。この頃からピアノのコーチが変わり、一段と練習が厳しくなり、なかなか会う時間も取れなくなった。
 翌年の春休み、ひと月ぶりくらいに彼女とレッスン室でピアノを練習した後、僕と付き合ってほしいと言った。彼女は戸惑った表情を見せながら頷いてくれた。
 僕は、ヘンデルのオペラのアリア『オンブラ・マイ・フ』の楽譜を出して譜面台に置き、今日のお祝いにこれを歌ってほしいと頼んだ。僕の伴奏で彼女の歌を聴きたかった。結衣子には何度かレコードを聴かせたことがあったので、初見で歌えると思い、僕がピアノで前奏を弾き始めると、すぐに歌い始めた。
歌詞の意味と歌い方や感情の込め方などを教えると、彼女はすぐに修正して歌ってくれた。結衣子の歌声に僕は命まで吸い取られるような気がした。
 歌い終わった後、彼女は音楽部に入りますと言ったことに僕は失望し、好きにしたらと素っ気ない返事をしてしまった。僕は仲間たちとは離れて彼女と二人だけでできるだけ一緒にいたいと思っていただけだったからだ。

 ある時、母から、練習もせずに女の子を家に連れてきて何をしているのかと責められて音楽部を辞めざるを得なくなった。手伝いに来ている女性が何気なしに母に話したのかも知れない。彼女も音大志望で歌が上手だとか、一緒にピアノの練習をするのは楽しいのだと言っても、母は全く聞く耳を持たなかった。皮肉にも彼女に交際を申し込んだのに、今度は会えなくなってしまったのだ。
 僕は四月に部長を辞めた。彼女が音楽部に入ったと人伝てに聞いていたので、部室に顔を出す理由だけのために籍は残した。しかし、一、二度部室に顔を出したくらいですっかり足が遠のいてしまった。

 結衣子に会いたかったし、部室に行けばいまは秋の音楽祭の練習をしているので、会えることはわかっていたが、部員のいる前で僕はどう振る舞ったらいいのかわからなかった。彼女を意識することも無視することも出来ないような気がしていた。前のように自分の部屋で話をしたかったが、それはもう出来なかった。手紙を書こうかとも思ったが、陳腐なことしか書けないような気がして止めた。気持ちを素直に表現しようと思えば思うほど、感情が内向してしまい、どうしようもなかった。
 ピアノのレッスンに身が入らなくなり、こんなことでは東京芸大に合格できないとコーチから何度も注意をされた。コーチにレッスンが楽しくないと言うと、耳元で、生意気を言うな、芸大に合格してから言え、と低い声で言われた。僕は結衣子の影を頭から追っ払おうとひたすらレッスンに励んだ。
 たまたま結衣子からの電話を取った時、何度電話をしてもつないでくれないと言っていた。電話があったことさえ教えてはくれていなかったことがわかった。電話をしてくれていたことは知らなかったとお詫びを言おうとすると、母親が部屋に入ってきたので、とっさに、忙しいからと電話を切った。彼女の家の電話番号も知らなかったので、折り返しも出来なかった。家がどこかさえも知らなかった。

 翌年、三学期の始業式の日の帰り道、裏門で結衣子が川野と自転車を押して一緒に帰っているのを見かけた。二人は楽しそうに話していた。僕は結衣子のあんな笑顔を見たことがなかった。二人の間に、先輩面して割り込んでやろうというどす黒い気持ちが湧いてきたが、彼女の手前さすがにそれはできなかった。二人は僕には気付いていなかった。
 後ろから声をかけられた。音楽部の後輩の女子三人連れだった。先輩お久しぶりです、という丁寧な挨拶まではよかったが、先輩は西野さんに振られたんですね、という言葉が続いた。付き合ったこともないのにフラれるもないだろうと僕は答えたが、後輩たちはそれには反応せず、失礼しまーすと僕を追い抜いていった。〔全6話中第4話終〕

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