『洋書天国へようこそ』ノート
宮脇孝雄著
アルク出版刊
2019年7月26日初版
いきつけの本屋の棚に並んでいたこの本の背文字を、『洋酒天国』と読み間違えて手に取ったことがこの本を手にしたきっかけだった。
表紙をよく見ると『洋書天国』であった。なぜ読み間違えたんだろう? そういえば、北杜夫の旧制高校時代からトーマス・マンの大ファンだったそうで、街を歩いているときに、〝トマトソース〟と書いてある看板をみて、トーマス・マンと読み間違えた、という話を『ドクトルまんぼう青春記』か何かに書いていた。その伝でいえば、私は洋酒が大好きということになるが、その通りである(威張るでない!)。
因みに『ドクトルまんぼう青春記』は、私の学生時代の愛読書で、安下宿で一人暮らしのとき、なにか寂しくなるとよく開き、その面白さで気分を紛らわせたものだった。
私は洋書といえば、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリナーズ』(ダブリンの人びと)を読み通しただけだ。この本は大学の英語の授業のテキストだった。癖のある英語で、訳するのに苦労をした覚えがある。それ以外の外国物は翻訳されたものを読んでいるが、外国の作家の作品には、特定の訳者がいる。たとえば、私の好きなトム・クランシーの作品は井坂清、パトリシア・コーンウェルは相原真理子などその作者の作品の全部ではないが、多くの小説を訳している。
これは、原著者の表現の癖や言葉遣い、慣用句などをよく理解している人の方が訳しやすいし、出版社側も頼むなら慣れた人にとなるのだろうと想像が付く。
ただ、前にもいくつか取り上げたが、旧訳のものが流布している作品を現代の作家が訳するというのもあり、そればそれで新鮮である。例えば、『十五少年漂流記』の椎名誠・渡辺葉(椎名誠さんの娘)共訳とか、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』(清水俊二訳)を村上春樹が改訳した『ザ・ロング・グッバイ』や、同じく『さらば愛しき女(ひと)よ』(清水俊二訳)を改訳した『さよなら、愛しい人』などだ。
それはともかく、この『洋書天国へようこそ』(副題:深読みモダンクラシックス)では、主に20世紀の英語の名作の一節を原語で引用し、それを直訳してみて、名訳者の訳文と比較したりと、面白い試みが満載で、49の小説や詩集などの作品が選ばれている。うち、私が読んだことがある本は11冊しかなかった。もちろん翻訳本である。この本のおかげで、読んでみたい本がまた増えた。
一例を挙げると、チャンドラーの『Farewell,My Lovely』(清水俊二訳では『さらば愛しき女(ひと)よ』)だが、このような場面がある。主役は私立探偵フィリップ・マーロウ。チャンドラーの文体は、面白い比喩が多い。
彼が自動車でロサンゼルスのサンセット大通りから郊外に向かっている時の光景ーー
〝On the other side of the road was a raw clay bank at the edge of which a few unbeatable wild flowers hung on like naughty children that won’t go to bed.〟
これを著者の宮脇孝雄がまず直訳してみる。
〝道路のもう一方の側にはむき出しの粘土の土手があり、その端に、どうしても寝ようとしない聞き分けのない子のように、最強の野草が何本かしがみついていた。〟
これを清水俊二は、こう訳す。
〝もう一方は土手になっていて、ところどころに、野生の花が宵っぱりの子供のように咲いていた。〟
単語や修飾語を大胆にカットして、すっきりとした訳になっている。このよううに比較すると、読み手の好みで分かれるだろうが、どちらがよいとも言えない。小説はプロットが大事だから、枝葉末節の表現はこだわらなくてよい、という人もいるであろうし、ある意味で原作をないがしろにしているとも言える。
(ついでに村上春樹の訳も引用しようと思ったが、何故かその本が見つからないのでやめた。)
原語ですらすらと読めて、その作品、文体、作者の感性を直接味わえるならそれが一番よいのだろうが、私たち一般の読者は、翻訳されたものしか読めない。それにしても、翻訳作業というものは、単なる翻訳ではなく、もう一つの文学作品を生み出すのにも似た大変な作業である。
一例をあげたが、この本は翻訳作業の大変さと、その奥深さを教えてくれる本である。
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