弊Noteにおける楽曲の原作歌詞の取り扱い方針

22年8月21日:
 3-2項の和訳部分の表記方法を修正
 旧「1マス開ける」→新「"太字でない"記載で後続」


【はじめに】

 弊Noteでは、下記のマガジンにおいて音楽関連のトピックを扱っています。特に音楽における「歌詞」の部分にフォーカスし、和訳・英訳を行いつつ、その訳に至った背景を複数の情報を基に説明し―――Youtubeなどで公開されているMusic Video、Genius Lyricsなどの海外サイト、アーティストのインタビュー記事、単語やイディオム一つ一つの英語圏での使用例・ニュアンスなど―――、単なる機械翻訳に収まらない翻訳をモットーに活動しています。

 わたしは、翻訳とは、翻訳元・翻訳先の言語において意味が通ることを目標としつつも、「単一の正解」が存在するものではなく、その主旨によって様々に正解が変化するものだと考えております。たとえば洋画の字幕であれば、画面やシーンの秒数に収まりつつも分かりよく、かつ発言者のキャラクターにあった翻訳が求められるでしょう。たとえば音楽における日本語詞を英詞化して歌うことを前提とするならば、意味の通りをある程度守りつつも歌いやすさ・音に収まるか否かが重視されるでしょう。また、洋画にしろ歌詞にしろ、じっくり読むことができる空間においては、その意味の通りや分かりよさ、納得感が翻訳に求められます。すなわち、客観的に見た「より優れた翻訳」というのは、シーンによって異なります。
 わたしが行っている「ブログ上での歌詞翻訳」は、「じっくり読むことができる空間」として意識し、「主張の筋の通り」を意識した訳を行っています。ただし通常の商業シーンでは、「主張の筋」よりも「キャッチーさ、わかりよい面白さ」が求められることがままあります。なぜならば、多くの人々の生活は大変に忙しく、面白いか面白くないかに関わらずコンテンツは他にもたくさんあるのですから、短時間で、インパクトを与える内容こそがPV(閲覧数)を稼ぐことになります。そして、それらPVの追及は、往々にして表現に画一的な影響を与えます。「世間で慣例的に行われている表現、流行り」「事実と外れた言葉」……。見慣れた言葉の方が頭に入りやすい、常軌を逸した表現の方が記憶に残りやすい……。
 わたしが問題視しているのは、それら商業主義的な表現活動のキャッチーな喧伝・表現によって、『この世に確かに存在する感情、事実、表現』が、閲覧数や評価数の差から、矮小なもの、取るに足らないもの、なきものとして、意識下あるいは無意識下に、人々の記憶から排除されることです。確かに存在する悲しみなのに、キャッチーでないから、評価されていないから、取り合ってもらえない。確かにこの手にある喜びなのに、閲覧数がないから、「異なる者の意見」として排除される。閲覧数のために、PVのために、商業的成功のために、なきものにされるそれらを、わたしは看過してはならないと考えています。存在しないものをなきものとして圧迫して取り扱った時、そうされた側の苦しみは、歪んだ形でこの世に現れてしまうからです。

 また、そのような考えで活動しているわたしでも、自身の持ちうる視野/表現力では、読み取れない/表せていないことがいくらも存在すると考えております。いくら汲み取ろうとも、誠実であろうとしても、それはわたしというフィルターを通した視座にすぎず、わたしの脳と指を通した表現にすぎない。それは全人類と全宇宙が持ちうる「事実」を網羅できるものではありません。わたしの翻訳は「わたしの意見」であって、「原作者の意思」でもなければ「全宇宙の正解」でもありません。
 だからこそ―――ひとつの翻訳が正解足り得ないからこそ―――、わたしは、表現活動をする者は、たとえそれが重複していたとしても、複数存在していてよいと思うのです。同じ楽曲の翻訳がいくら存在してもいい。似た表現の箇所があったとしてもいい。それでも、その表現者ひとりひとりが、既に存在する情報を基に、自身の持ちうる視座・言葉をもって、新たに翻訳をしたならば、それら個々が一つ一つの作品であり、表現であると認められる行為なのです。それは複製ではない、インスパイアとオマージュをもって生まれた、新たな創作の系譜だとわたしは考えます。その系譜を紡いで、その作品を見た者が、また影響を受けて表現・発信を繰り返していく。これこそが創作・表現活動における醍醐味の一つであり、決して無視してはならない、無造作に絶やされてはならないものだと確信しています。


 そのような前提で翻訳活動を行っておりますが、その上で無視できない、大切に取り扱うべき要素が存在します。
 それは、「歌詞の原作者様」および「原作の創作物(=歌詞)」です。

 わたしの翻訳活動はいわば「二次創作」と呼んでも好いものと考えます。原作ありきで、原作の偉大なお力を借りて、わたしが感じたこと、筆を執るにあたって生まれた言葉、表したいことを発信させていただく。それは「原作者様」と「原作の創作物」を可能な限り尊重し、原作者様の意向を汲んだ形で行わなければなりません。原作がなければ、原作者様がなければ、わたしの「二次創作物」はそもそも存在しないからです。
 法律というルールがあれば則り、原作者様の発信があれば従わなければなりません。それがどうしても許容できないのであれば、真っ向から立ち向かうしかありません。

 わたしは、基本的には、法律や原作者様の発信に則り、歌詞の翻訳活動を行いたいと考えております。
 本記事の本題として、『弊Noteにおける楽曲の原作歌詞の取り扱い方針』をまとめさせていただきます。


【本題】

『弊Noteにおける楽曲の原作歌詞の取り扱い方針』



1.
 弊Noteでは、わたしSeigaにとって非商用の活動を行います。
 具体的な方針は以下。
 ・弊Noteにおいて「サポート機能」(いわゆる「投げ銭機能」)を無効化
 ・無料記事のみを公開(有料記事なし)

2.
 楽曲の原作者様(*)が歌詞の直接掲載や翻訳活動などを取り止めるよう発信されている場合、日本国の法律より優先して原作者様の方針に従います

 (*)以下を対象とします。
 ・作詞者様
 ・作曲者様
 ・(バンド名義楽曲の場合)現在の正規メンバー様

3.
 原作の歌詞を記事に掲載する場合、著作権法第32条「引用」1項に従います。

 [1]公正な慣行に合致すること,引用の目的上,正当な範囲内で行われることを条件とし,自分の著作物に他人の著作物を引用して利用することができる。同様の目的であれば,翻訳もできる。(注5)

文化庁 - 著作物が自由に使える場合(2022/08/20閲覧)

(注5)引用における注意事項
 他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。
(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
(4)出所の明示がなされていること。(第48条)
(参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)

文化庁 - 著作物が自由に使える場合(2022/08/20閲覧)

 これに基づき、弊Noteにて原作歌詞を直接明記する際は『引用』扱いであることを表明致します。それが分かるよう、下記のように表記を行います。

3-1.
 記事の冒頭部にて、下記情報を明記する。
 ・楽曲タイトル
 ・作詞者

 
例:

Oh No - Bring Me The Horizon【和訳】

3-2.
 歌詞部分と和訳部分を明確に区別できるようにする。
 下記例1および例2においては、下記により区別する。
 ・原作歌詞部分を太字表記
 ・和訳部分を"太字でない"表記で後続

 例1:歌詞の和訳部分

Oh No - Bring Me The Horizon【和訳】

 例2:記事中の歌詞引用部分

Oh No - Bring Me The Horizon【和訳】


補足:
 3項の表記方法が、著作権法第32条「引用」1項の注5に従っていることを説明します。

(注5)引用における注意事項
 他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。
(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
(4)出所の明示がなされていること。(第48条)
(参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)

文化庁 - 著作物が自由に使える場合(2022/08/20閲覧)

 (1):原作歌詞のどの部分の翻訳であるのか、
   その翻訳は原作歌詞の意図を汲めているのか、
   一瞥して読者が評価するために、引用が必須。
 (2):3-2項の表記通り、
   原作の歌詞と、Seigaの翻訳部分および文章が区別されている。
 (3):翻訳した内容およびその説明箇所が記事の大半を占める。
 (4):3-1項の表記通り、楽曲名および作詞者を明記している。



 上記1,2,3,3-1,3-2項の方針にそぐわない発信を行った場合、該当の箇所または記事を削除いたします。
 また、方針を変更する際は、本記事の冒頭部において変更箇所を明記いたします。


以上

2022年8月20日 Seiga