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適応しない余白

なにげなく目や耳にした一言に、それまでの価値観をがつんとぶっ壊されることが時々ある。まったく思いもよらなかったからなのか、心の奥底で眠っていた気持ちにリーチされたからなのか、自分でもよくわからない。

日本に住む友達二人とZoomでおしゃべりをしようと計画していたら、一人が少し精神的に弱っているので調整したい、と言った。ものすごく忙しくストレスが多い仕事をしている彼女は、人一倍がんばり屋さんで気づかい屋さん。いい年齢でもあるし無理しないようにね、が最近のお互いへの声かけだった。

2ヶ月後に「適応障害だと診断を受けた」とメールをもらった。今は快方へ向かっている。初期症状を聞いて、他人事ではないと思った。同じタイミングで報じられた深キョンの活動休止ニュースにハッとする。私が見入ったのは、 Yahoo!のコメント欄にある識者の言葉だった。

勘違いされやすいのは、適応障害とは『適応できなかった』と思われがちですが、多くの人が『過剰に適応して(合わせて)いた』のであり、その結果、脳や体が疲れ切ってしまったのです。
ー深田恭子が活動休止を発表…適応障害で 7月期フジテレビ連ドラは降板



過剰に適応して(合わせて)いた

この言葉にドキリとする。なぜならこの一年、それまで当たり前だった生活が一変して、New Normalな状況に適応しようと必死だったからである。

現実主義ゆえに「変えられないものはしょーがない」と思いがちだ。去るものは追わず、変わるものは受け入れる。できれば楽しく愉快に過ごしたくて、確実に存在するはずのストレスを軽視してしまう。ストレスをストレスと認めない。

きっとこの一年だけじゃなくて、景色も言語も食生活も変わったアメリカ生活に、まるで自分の人生を失ったような産後生活に、何が分からないかが分からない海外の育児生活に、その中で半ば意地のように続ける仕事生活に、ひたすら自分を適応させてきたのだろう。友人と深キョンの知らせが、警報を鳴らしてくれた。


もう何年も前、職場の先輩が放った一言が心に残っている。当時、炭水化物抜きダイエットが流行っており、私もアメリカに来て広がり続ける胃袋を気にしてトライすることにした。ごはん、麺類もろもろ食べられない。それを先輩に伝えたところ「ラーメンも?」と聞かれた。私が博多の出身でラーメンが好きだと知っていたからだと思う。はい、と答えたらサクッとこう言われた。

「でもそれって全然幸せじゃないよねえ」


なにげない一言だったけど、強烈に刺さった。真理だ。大好きなものを我慢してまで叶えたい姿とは一体なに??もちろん理想を描くのは大事だと思うし、そこへ至るまでに努力が必要な場面だってたくさんある。でも、それは何かを我慢したり犠牲にしたりしてまで実現したいの?ただでさえままならない現実が多いこの世の中で?


自分を常にアップデートさせたい私は、しばしば目の前にある望みを蔑ろにしがちだ。ゆっくり小説を読みたいのに、自立した経済力のために夜まで働くとか。たっぷり洋画を観たいのに、英語力の高上のために文法書とにらめっこしてるとか。こんなふうに書くとさも努力家みたいだけど、現実は働いている体裁でネットサーフィンしたり文法書を開いてまったく別の空想に耽っていたり、根っこがルーズすぎて生産性が低い。

私にとっての幸せとは、と考えたとき、最終的に出てくる答えは、夫や子どもたちが元気で、おしゃべりできる友人がいて、美味しいものが食べれて、たまには旅行ができて、そこそこ好きな仕事ができればいい、だったりする。もう叶えているはずなのに。


家事育児に加えて、あれこれと詰め込みすぎだと気付いたのは最近のこと。仕事、勉強、人間関係、目標、コミュニケーション、SNS。なりたい姿から逆算して力を付ける方式で生きてきた私は「今の幸せ」を見つめるのがへたくそすぎる。その方式のおかげで多くの夢を叶えたので、悪いとは思ってない。つまり必要なのは余白なのだろう。

「適応する」に伴う不具合を考える。特にこの一年、出口を塞がれたような状況下では、多いと感じるぐらいの糊代がちょうどいいのかもしれない。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。