エッセイを書くこと、書く場所
「おまえってさ、きれいに歌おうとしすぎてつまんないのな」
そう私へ言い放ったのはかつての先輩だった。情報誌で働いていた頃、校了後の打ち上げだったか誰かの送別会だったか、チームのみんなで一緒にカラオケへ行ったときのワンシーン。
過去にバンドでボーカル担当だったらしい彼は、アンジェラ・アキの「サクラ色」を高らかに歌い上げた。男性的な荒々しさの中に透けて見える繊細な感性。人の目なんて気にせずたっぷりと感情が込められた歌声は、悔しいほど今でも耳に残っている。
一方の私は、音程とかリズムとかきっちり拾う「正しい」歌い方をしていた。じぶんの気持ちなどさておき、ただ譜面を的確に追うみたいに。
先輩の一言は思いのほか胸にサクッと突き刺さった。10年以上経てども留まっているのは、それが私の歌い方についてではなく、人間性そのものを言い当てられた気がしたからなのだろう。
見栄っ張りであること、格好つける癖があること。
エッセイ、と呼べるものを書けている自信はないけど、これまで便宜上そうタグ付けしてきた。ただ、ここ最近は書けば書くほど自分の中で躊躇いが生まれるようになった。
"過去" から地続きで "今" を綴るとき、私は必ず終わりに向かうにつれ文章の明度を上げようとする。暗いものを暗いままで終わらせたくない。
一方で、葛藤もあった。自分の中に重く鎮座していた出来事を一つの作品(あえてこう呼ぶ)に仕立て上げる結果、さも美談のごとく化けさせてしまう。ただ、綺麗事にしているだけじゃないか、と。
もう一つ、躊躇いが生まれた理由が、わざわざ「哀しみを拾う」行為にある。
普段の日常生活では、楽しいこと、面白いこと、にフォーカスしながら生きている。正直、根っこは割とぐずぐずしてたりするのだけど、意志を持って明るく生きている。べつに無理をしているとか、在りたい姿を演じているとか、そんなわけじゃなくて、ただ自然な形で。
なのに、エッセイを書こうとすると、過去の傷口をわざわざこじ開けて。思い出さなくていい断片まで無理やり健在的な記憶に引き上げている気がする。もちろん書く内容による、話。
やめたほうがいい、かな。
結論めいた何かが書きたいわけじゃない。
暗い気持ちを思い出したいわけじゃない。
そう思いはじめた。
ところが、しばらくするとまた別の葛藤が生まれた。
こんなふうに自ら封じ込めてしまったら、どこでぽろぽろ溢れ出す気持ちを吐き出せばいいのだろう。
日記でいいじゃん、と思う。現に、日記に書く作業はやっている。そこにはありのままの気持ちが言葉として在る。
だったらそれで充分なのでは?
わざわざnoteに書く意味は?
どうしても誰かに聞いて欲しい?
優しい言葉をかけてもらいたい?
うーん、そういうわけじゃないような。
読んでもらえるのはめちゃくちゃ嬉しい。
でも、その先を求めているのとは違う。
度々ぶつかる「何のために書くのか」問題。
しばらくもやもやと考えていて。
ある日、いつものようにドライブしながら夕焼けを眺めているとき、ふと思った。
もしかしたら、私が、私の話を聞いてあげたいのかもしれないな、と。「今の私」が、「過去の私」の話を。「今の私」が「今の私」の話を。
あえて広角的な視点から出来事を眺めて、うんうん、それはこうかもね、ああだったかもね、って。
日々を過ごす中でふわふわとたくさん生まれる。誰かに聞いて欲しいけど、わざわざ時間をもらうほどでもない。取るに足らなかったり独りよがりだったり。もしくはひっそり抱えた傷だったり。世間にとっては小さくても、私にとっては大きな "何か"を、掬い取る感覚。
自分しか見れない日記ではなく、他人の目にも触れる場所で文章を書くとき。わずかな客観性がプラスされる。ひとつの事象や生まれた感情を、俯瞰的に眺める。
たぶん、私にはその「距離」が必要なのだろう。
最後に文章の明度を上げるのは、見栄を張るとか格好つけるとかではなく、自分の生き方そのものだ。
ただ、他人の目を気にして、書くのを躊躇うときはある。「私なんかが」そう考える裏には、プライドを守りたいとか恥をかきたくないとか、しょうもない気持ちが存在している。
あの頃、先輩によく「殻を破れよ」と言われていたっけ。その度にどうしていいか分からなくて途方に暮れたけど。すみません、あれから10年経ちましたがまだ破れていません。書き続ければヒビぐらいは入るかな。
もう少し、この場所で書くことを楽しんでみたい。私が「私の話」を、なんてずいぶん独りよがりだし、求められるものとは違うかもしれない。でも、心の赴くままに。私の話をいちばん聞いてあげられるのは、きっと私なのだから。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。