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大丈夫かもしれない、という希望


約半年ぶりにcotreeでカウンセリングを受けた。

根本的な悩みというのは、ここ10年近くずっと変わっていない。「このままの私ではいけない、もっと頑張らないと」と思い続けるのが辛い、という話だ。

何か成し遂げたい目標があるわけではないし、高級なものが欲しいとか、いいところに住みたいという欲もそんなにない。自分で稼いで、きちんと自立して暮らしていければ十分だと思っているはずなのに、どうしても罪悪感や焦りがある。何があれば満足なのかわからなくて、どこに向かって走ったら良いのかわからない。

といった感じだ。



久しぶりのカウンセリングはとても緊張したが、カウンセラーさんがそれはもう暖かい方で、あっさり緊張はとけた。

カウンセリングの中では、すらすら話せることもあれば、うまく言葉が出てこないこともあった。私が話している時間の方が圧倒的に多いのに、新たな気づきがたくさんあったし、今まで知らない間に隠していた気持ちを見つけてしまったような気がして、自分でも驚いてしまう場面もあった。45分でこんなにも話せるとは、と感動した。

内省を促すような質問をたくさんいただいて、現状と過去について掘り下げたあと、最後の10分ほどで総括と今後やるといいことについてお話してくださった。

そして、最も大事なこととして「今のような苦しみがあるのは、それ相応の理由があるはずだから、こうなった自分を責めないこと」と言ってくださった。そんな考え方あるんだ、と驚いて、本気で泣いた。(ずっと泣いてたけど)



正直なところ、悩みを持つようになった原因を探ることはあまり意味がないと思っていた。

過去を紐解いたとしても、どうせ変えることは出来ないし、であれば、解決策を探すことに時間をかけた方が良いのでは?と考えていたから。むしろ、生きる意味のようなことを考える余裕があること自体、暇人の証拠だと思うし、だったら満足するまで頑張ればいい話なのでは?とも思っていた。

いわゆる一般的な家庭で、誰がどう見ても不自由なく育ってきた。大きなトラウマがあるわけでもなく、病気を患っているわけでもないのに、苦しいだなんて、図々しいというかなんというか。とにかく、自分の捉え方がすべての要因だと思っていた。

でも、生まれつきの性質と、側から見たら大したことのないちょっとした出来事や環境の掛け合わせが、どうにも相性が悪くて、ネガティブなものを蓄積していくということはあるのかもしれない。

「辛い」「悲しい」という感情は私のもので、誰もジャッジする権利はなく、そんな自分を受け入れることは悪いことではないのかもしれない。

初めてこんなことを思った。



過去なんか置いておいて、解決策を明らかにすればいいじゃない、というこれまでの考えも一理あると思う。ただ、私には少し早かったのかもしれない。前に進もうとしても、自己否定が強くて、「自分なんか何をしても無駄」という気持ちから逃れられなかった。

過去に向き合って、この状態が仕方がないものだと受け入れようと思うようになって初めて、少し前向きになれる気がしている。今度こそは変われるのかもしれない、大丈夫なのかもしれない、と思えている。

日々、頭の中で気持ちや状況を整理しているつもりだけど、どうしても一人で考えていると、視野は狭くなってしまうのだと思う。

「まだ冷静だし、いろいろ考えられているから大丈夫」と思っていても、状態がいい時と比べると、案外視野が狭くなっていることがあると思う。メガネのレンズが曇っているのではなくて、レンズの面積が知らない間に減っているような感じ。見えているところははっきり見えるから、視野が狭くなっていることに気づかないというか。(わかりづらい)


肩が凝れば整体に行くし、肌が荒れれば皮膚科に行き、風邪をひけば内科に行くのに。どうして心の問題は自分で解消できると思ってしまうんだろう。自力で解決することではなくて、健やかに生きることが最も大切なのに。


幸せになるぞ。



※過去のカウンセリングの記録はこちら※
他のカウンセラーの方ともお話してみたくて、今回違う方にお願いしました。


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