被虐待児(私)の原風景
原風景。
人の心の奥にある、原初の風景、だそうです。
機能不全家族出身の私のそれは、いわゆる健全な愛着のある家庭出身の人達とは、きっとかなり違うんだと思います。
旅先で歩いていると、名もなき廃屋と出会います。そして、写真に収めます。
(扉絵は、その中のひとつのスマホ画像です)
いわゆる「ばえる」廃墟ではなく、ひっそりとした旅館の跡地とか、人気のない納屋とか。
内側から、薄い窓の光を撮ることが、多いです。
幼少期、家から閉め出されたことが、たびたびありました。兄でした。もう二度と家に入るなと、外へ突き飛ばされました。
父親は不在だったかもしれません。母親はどこにいたのか、思い出せません。
外側から、すべての家の窓をチェックしました。その全てに鍵がかかっていたので、諦めて、庭のすみにある、物置のような掘立て小屋で過ごしました。暗くて、カビ臭く、土や埃だらけの場所です。壁には、窓のような四角がくり抜かれていて、そこから入ってくる夕方の弱い光を見ながら、途方にくれたり、ここではない場所を空想したりして過ごしました。
そのうち、よその家から、晩御飯の香りや、お風呂の入浴剤の香りがしてきたり。
曇りガラスごしに、兄が見ているであろうテレビの光が見えたり。
みんな中にいて、日々の営みや楽しみを送っている間、
私はひとり、不潔で暗い場所に、じっと座っていた。
今でもその場面をよく覚えているのは、当時自覚していた以上に、戸惑いや傷付きがあったからかもしれません。
同時に、この暗い物置は、安全な場所でもありました。そこに居るうちは、誰も暴力を振るってこない、放っておいてくれると。
この経験は、大人になってからの行動パターンに、大きな影響を及ぼしました。
自分の居場所じゃないところ、そもそも好きでもなく友好的に迎えられてもいない所へ入れてもらおうと、なんとか認められようと努力したり、逆に他人から一人離れると、寂しさより安心が先に立ったり。
気付けば、そんな原風景のような写真を、撮ってしまっています。
そんな私の写真に、共鳴したり、何かしら感じてくれる人がいます。心の棘とか、ささくれのようなものを持っている人が、同種のものを、写真の中に見つけるようです。
話はそれますが、ある絵を描かれる方が、「ただ可愛いだけの絵」と言われて、じんわり苛立っていました。
私自身、彼女の絵の中に、寂しさや言葉にできない感情を見つけて、絵自体も良くて、好きなのですが。。
わざわざそういう、どうしようもない事を言うメンタリティの人は、色々なところにいるんですね。
私の写真についても、「こういう、ただキレイなだけの写真、私も撮れると良いんですけどね〜」なんて言ってくる人がいましたし。
そういう感性の持ち主なんですね、と放っておくしかないですね。
(ずいぶん話がそれてしましました)
「(misakiさん)の写真は、陰陽で言うと、陽って感じしますよね。廃墟とか撮っていても」と、ある写真愛好家の人に、言われたことがあります。
闇や痛みは私の日常だったので、ことさらに強調する必要を感じない為、明るさに意識が向くのかもしれません。
陰は、いつでもどうしても、引きずって歩くものなので。という考えです。
そして私の視線は、つねに暗闇の中の小さな窓からの明かりなんだと思います。
解離したり偽っていた時も、腹をくくって自分と向き合っていた時も、いつもそうしていて、やり方が違うだけで、本質的には、ずっと同じところを目指していたのかもしれません。
その意味では、彼の印象は、当たらずとも遠からず、といったところです。