弱さとは
私にとっての「弱さ」の定義は、トラウマ治療前と後で、正反対になった。
かつては、つらい、出来ない、助けて欲しいと、思ったり人に告げたりする事が、弱さだと信じていた。それで、つらさから目を逸らし、合理的な行動に徹し、人に頼らず、自己完結するように努めた。
それが強さだと思っていた。
人に甘えたり頼ったりする人達にイライラしたのは、そうできる彼らが、羨ましくて妬ましくて、そうできなかった自分が悔しかったからなのだろう。
今もまだ、人に頼るのは得意ではないけれど、できないことやダメなところを過度に隠すことはしなくなった。ほとんどの人達は、弱いところを見ても攻撃したりしてこない。「そうなんだね。」と聞いてくれたり、それで少しずつ快適の範囲が広がったり。そこから話が広がったり、そんな話の中にヒントが散りばめられていたりする。
助けようとしてくれる人に、警戒心を持たなくなった。以前は、何かをしてもらった時は、それ以上に奪いにくることを警戒したり、借りを作ったようで居心地が悪かったりしたけれど、今ではただ、(若干不器用ながら)「えっいいんですか?(喜)」「嬉しい、ありがとう。」と思えるし、言える。
いろいろな「強さ」があるけれど、その中の一つは、自分の中のあらゆるエレメントや感情と、分け隔てなく向き合えることだと思う。
「弱さ」にも色々ある。その中でも、いちばん醜悪で、絶対に陥らないと決めている「弱さ」は、自分の感情や問題から目を逸らし、スケープゴートを作りそれを攻撃する事でやり過ごす、というもの。さらにそれを、正当化すること。依存し、そこに留まること。
noteをざっと見渡すだけでも、他責思考の虐待者に苦しめられた人たちの多いこと。傷ついた人間にとってのそれは、甘い罠なのだと思う。
肉親だけでなく、「友達」だったり「患者」だったりを、養分にして生きようとする人達とも、出逢った。何度かふれた元友達もそうだし、ずっと昔会っていた、催眠療法士(ヒプノセラピスト)も、そうだった気がする。
心理職に就こうとする人たちは、自身も心の傷を体験した率が高いときく。絶望感と無縁の人生を送っている人は、心理の世界に興味を持つきっかけはあまり無さそう、というのはよくわかる。私ですら、トラウマ治療が終わって以降、優しい人達と心の交流が出来ている時間は、心理のことなど微塵も考えない。
私が一時期かかっていた催眠療法士(女性)は、「半トランスで心の核に語りかける」という触れ込みだったものの、全く催眠にもかからず、治療費も高いので、もうやめて一人で頑張りますと告げたところ、急に声を荒げ鬼の形相になり、
「そんなにボーーーっとした頭で、何もわかるわけないでしょう!!?」と怒鳴りつけてきた。
(その場は穏便に済ませて、後からメールでやめる旨を改めて告げました、、)
彼女は、真摯に心理職を志したのかもしれないけれど、多かれ少なかれ、人を支配したい気持ちもあったんじゃないのかな、と勘繰ってしまったし、今でもそうじゃないかと思っている(催眠にかかるって、その人に生命まで委ねることですし、余計に……)。
話は戻り。
私はまだ、自分と向き合うことも、人と自分のまま交流することも、不慣れでたどたどしい。いつかそれを、絶えず自然にできるようになると良いな。