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多重「人格」のこと(6.2)

ソファでうとうとしていた私の隣に、「希死念慮さん」は相変わらず居た。目を覚ますと、丑三つ時。

また、辛かったり痛かったり悲しかったりした記憶の粒が、降って来た。自分を慰めることは、しなかった。ただ、「希死念慮さん」と一緒に、記憶の映像を観た。ただ、悲しかった。

「私が知っている以上に、私の人生は、悲惨だったんだね。」と言った。独り言だったのか、「希死念慮さん」へ向けて言ったのか、定かではない。

「希死念慮さん」は、私がまだ思い出せていない痛みの多くを、ずっと引き受けていたのだろう。他の分身達や人格達のように、簡単に融合出来る筈がない。ひと言ふた言の慰めでは、足りる筈がない。

私本体を殺してしまう程の辛さを、「希死念慮さん」は受け止めてくれた。または、押し付けていた。生き延びる為に。

身体の中身を空洞のように感じたのは、人生の多くの時間を占めた痛みの記憶を、まるごと消していたからなのだろう。

その失くした記憶を全部持っている「希死念慮さん」をより実体のように感じてしまうのは、その理由なのだろう。

声帯のある辺りに、締め付けられるような痛みを感じながら、振り絞って言った。

「それでも、」

「それでも、私は偽物じゃないと思う。私達は、それぞれの苦しさを引き受けながら、一緒に生きてきた。私も、偽物じゃないと思う。」

そこから、私の身体の中心部に、発光する種子のような存在を感じた。これは、世に言う、自我というもののような気もする。違うかもしれない。

喉元の痛みは、もう消えていた。

「希死念慮さん」の重さと大きさは、とてもじゃないが、すぐには受け止められそうにない。ただ、確実に、距離が縮まっている。凍りそうに冷たかったのが、少し和らいだ気もする。

それまでは、寄り添いながらも、「希死念慮さん」の海のような大きさを感じ、時折その中に沈んだりしていたが、その時から、横に一緒に並んでいるような気配、ちょうど二人三脚の体勢のように変わった。

しばらくなのか一生なのか、こうやって一緒に歩んでいくのだと思う。この先、どうなるのか未知数だけれど、融合してもしなくても、一緒に強く生きていけるような気がしている。

【追記】

この記事を書いた数時間後、嗅覚が急に発達したような気がします。いつも飲んでいる紅茶の香りや風味を、これまで以上に認識出来るようになりました。すっかり取り戻したと信じていた五感に、まだ伸び代があったようで、驚いています。

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