気付きメモ(答えは、まだ無い)

気付いてしまった。というか、ようやく思い出した。近視眼的だった事。

自分の辛さ苦しさしか見えず、無関係の人を傷付ける事が度々あった事。

親しげに懐に入られたり、優しくされたりした時、どうして良いか分からず、ただ居心地が悪くて、逃げたり、突き放してしまったり、冷酷な言葉を吐いてしまったりした。自分なりに必死だった、なんて、その人達にはまるで関係ない勝手な都合で、その行為が帳消しになる訳でも、傷(もし付いたとして)が無くなる訳でもない。

過去に好意を持ってくれた男性に対し、コントロールするような言動をとってしまったり。逆に、気遣いのフリした他人軸な行動の数々で、囲い込むようだったり。(他人軸って、決して相手を思いやってるのではなく、承認欲求の歪んだ亜種なんですね。自覚が無い分、余計にタチが悪いです。)

自分の被害や苦しみが世界の全てに思えて、他人が傷付くことに対する想像力が、欠落していた。これでは、加害者と、まるで同じなんじゃないか……虐待の連鎖は、こうやって続くのか……と思うと、何というか、過去の自分がとても怖い。(自発的に離れて行ってくれた人達には、今や感謝しかない)

人間が(主語大きくてすみません)、こんなに脆く度し難いなら、と仮定すると、「憎しみ」以前に、「憐れみ」のフィルターがかかる。「加害者=絶対悪」という思いが、複雑性に呑まれる。

もちろん、(私の行為も含め)それで何かが正当化される訳でもなく。ただ、これからの考えは、「善」「悪」「許し」「許され」といったものとは、別次元のものになりそうな予感がする。

そして、安心出来る家庭や社会というのは、ただ有るのではなく、色々な人達の思いのたゆまぬ積み重ねで構成されていて、それは想像するに息の長い大仕事で、そう思うと、目の前の景色が違って見えてくる(感謝に近い)。

そんな大変なプロジェクト、私と同様にハンディを背負う者にとっての大変さは、言わずもがな。それなのに、勧善懲悪の論理で、上手くやれない人達(私の場合は、家族)を糾弾するの?、、、という考えも生まれ。

一度他責思考を持つことは、必要だった。けれどもそれは、あくまで何かに続くプロセスで、その何かが何なのか、まだよく分からない。

この先何か答えが出るとしたら、単純明快なものではなく、マーブルのように色々混ざった、言語化できないものになる可能性がある、と思っている。

そして、そんな理由で、パートナーシップをまた始めることに、慎重になってしまう。(今は、自分の為にも、慎重なくらいで丁度良さそう。)


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