見出し画像

やり方を変え、無意識に任せてみた

「無意識」というものに操縦されてるのかな、と考えるようになったこの二日間。

有給休暇だった昨日。美容院へ行ったあと、なんとなく初めてのカフェでも行こうかと、良さそうなお店をネットで適当に調べてから辿り着くと、同じビルには演芸場が入っていました。見ると、7年ほど前よく聴きにいっていた講釈師さんの名前があり、お茶をする代わりに、演芸場へ入ることにしました。彼は今では真打、ますます磨かれた素晴らしい芸を堪能したのでした。

今日は今日で、ずっと好きな翻訳家兼作家の方の朗読会を聴きに、ある書店へ出かけました。まだ出版されていない彼の翻訳がとても素晴らしく、70に手が届くというのが信じられない程の瑞々しい感性が伝わってきて、豊かな経験を持ちながらもこんな風に新鮮でいられたら良いだろうな……と感銘を受けたのでした。
人生も半ばに近づき、加齢や老化や先々のことに不安を持ち始めていたので、良いタイミングでした。
そのお店のパウダールームの壁を見ると、前々から好きだったのに最近思い出す事のなかった画家の展示のポスターが。
その後は特に用事もなかったので、二駅ほど離れた場所にあるその美術館へ向かいました。

シャガール展です。他の芸術作品にも言えることですが、過去治療前に見た時と違って、より心に近く、ダイレクトに感じるところが多くあります。
寓話や詩に添えられた挿絵のリトグラフが多くありまして、その中でも特に印象に残ったのが、この詩です。(冒頭抜粋)

==
唯一、私のものなる
我が魂の内なる国
我が家のように
旅券なしに出入りし
私の悲しみを見つめる
そして私の孤独をも
私の心は安らぎ
香り高き宝玉で包まれるよう
==

絵の中には、故郷をおわれたシャガールが魂の中に作ったホームがあって、それは自然な愛や美、いつかの光や空等等でできていて、
不思議なんですが、会場を出てからというもの、風の揺らす木々や蝉の音を聞きながら「感じたり」、横切る鴉の浴びる風を「感じたり」するようになりました。
見えるもの、聞こえる音との間にあった薄いもやがなくなり、開け放った窓から風が流れてくるように、ダイレクトに感じられるようになったというか。
なくなるまでは、もやが有ったことすら気づかなかった。。

その後は、以前から入ってみたかったカフェに入り、今そこで書いています。外から様子がまるで見えなかったのに、不思議となぜか惹かれていました。初めて入るその場所は、古い家具がゆったりとレイアウトされていて、古いジャズがかかり、グランドピアノがあり、お花のよい香りがする、とても素敵な場所で、すぐに好きになりました。

治療前は、ただなんとなく行動していると、いつも支配したがるような人と出逢い、いつのまにか好きでもない場所にいるようなことが多かったですが、最近では、同じように何も考えずにいると、好きだったものと再会したり、好きな場所や見たかったものや、必要な言葉に辿り着きます。

このところ、心に問いかけて意志を確認しようと試みては敗れたりしていましたが、実はその行為自体がお門違いだったのでは、、と考え始めています。
昨日今日のように、無意識が自動運転する身体に乗り、ただぼやっとしていれば良いような気がしてきましたよ。

かつて、解離の末、自分でも信じられないような言動に走ってしまい、自分自身が信頼できなかった私にとっては、今の状態が「自分を信頼できている」の具体的な形なのかも、と思い始めています。