遅れてきた普通の人生の日々に

御伽話のハッピーエンドの続きはきっと、
野暮ったかったり泥臭かったり、時に退屈な繰り返しだったりもするのかなと、ふと想像しました。

過去、トラウマ治療をする以前、頭の中は恐怖と自虐的思考とで埋め尽くされていて、警戒と解離を繰り返し、極端な考えを行ったり来たりしていて、まるでジェットコースターのような日々でした。

治療が終わり、常に自分でいることが板についてくると、フラットな視線で目の前のことが見えるようになりました。

いまさら何をという感じですが、やっぱり私は、人生のほとんどの時間をただ凌ぐことと生き延びることに割いてきたから、作る事や積み上げる事が全然できてきていないんですよね。

当たり前に自分のままで経験を積み上げてこられた人達が乗っているあの土台が、私にはないと感じます。
もちろん今から積み上げることは出来るけれど、生きる時間が全然足りない。
もし充分長生きするとして、
今から50代、60代、70代と積み上げていけたとしても、
10代、20代、30代と同じように出来る筈がなく、何となくの無力感に苛まれたりします。

無いものを数えるより今持っているものを、というのも充分理解していて、今健康であること、生い立ちの割にうまくやってこれていることを有り難く思いながら日々暮らしてはいるものの、時折もうどうしようもない事を思い出しては、ため息をついたりもします。

ところで私の職場は色々な国籍の方が在籍していて、そのほとんどがリモートでしか会ったことのない人達です。最近だと、ハンガリーの方々と仕事する事が増えました。私が出会う人達限定なのでかなり偏っているとは思いますが、ハンガリーやポーランドあたりの女性は、すごく働き者なんですよね。しかも前向きにどんどん学んでいて。

今同じ仕事をしているハンガリー人の女性は、おそらく30歳くらい。産休から戻ってきたばかりなので小さな子供がいて、リモートとはいえフルタイムで働いています。能動的で安定感があって能力が高くて、一緒に働くならこういう人がいいなと思うような人です。
共同で統計の資料を作っているのですが、枠組みをしっかり練りながら関数を効果的に使ってどんどん改善していくし、すごいなあと、ずいぶん年下の彼女から色々学ばせてもらっています。
(文字通り、50の手習いですね、、)

途切れない時間を生きられるようになった私は、諦念を小脇にかかえながら、楽しみと少しの希望をもって、冴えない日々を今日も生きています。



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