自分に成ることの痛み、自分軸の苦しみ

私が受けたトラウマケア(カウンセリングとちょっとEMDR)は、それまで受けたどの治療よりも効果的だった。

それ以前は、もう一生治ることはないと思っていた。過去に受けたサイコセラピーでは、「何年もかけて、少しずつ角度を変えながら、過去の出来事を見ていく。10年以上それを続けている人もいる。」と言われ、ぞっとした。当時20代半ばの私には、10年なんて永遠のような長さに感じたし、中年期まで同じ苦しみの中で同じ事を続けるというのは、絶望を意味していた。

実際、トラウマをある意味克服できたと言えるまでには、その倍の年数を要した。治療法は変われど、10年という見積りは、かなり楽観的だったと、今では思う。

私の場合における、トラウマを克服できたというのは、単純に、フラッシュバックがなくなったり、解離が収まり、記憶が途切れることなく、常に自分と居られるようになった、という状態だ。

常に自分で居るというのは、過去自分に起きた出来事を、全部引き取るということでもある。
治ったから大丈夫になったことも多いけれど、逆に、治ったからこそつらい事もある。

トラウマ治療を受ける前は、家族から暴行を受け続けた過去を、他人事のようにしていた。大した事じゃないんだとか、もう終わった事なんだし、とか。さらに、そんな出来事自体を、記憶の底に埋めて、凌いだ。

トラウマ治療が完了してから、幾度となく、受けた虐待の記憶が戻ってくる。私の感覚がまともになればなるほど、家族が私にしてきた行為の異常性が理解できるようになり、
ある意味、思い出すことが、更に苦痛になった。

徐々に、思い出す時の感じ方や視点が変わる。最初は、相手の行為が大部分だったのが、次第に、その当時感じていたであろう感情を、戻る記憶とともになぞるようになった。
暴行されていない時間のことも。
なんでもするから殴らないで欲しいと、道化のように阿呆のように振る舞ったり、媚びて思いもしない事を言ったり。その時の心は恐怖で満ちていて、当時感じられなかった震えが、今になって、解凍されたようにやってくる。

最近では、これは一生涯続くと覚悟する方がいいと思い始めた。
私になる、私でいる、という事は、過去切り離した感情全部を、今の私が一度受け止める必要がある。

こんな事が続けば続くほど、あの小さな自分には、とても受け止められなかったと理解できる。解離しか生きのびる術はなかった、と。
大人の自分が、子供の自分を守っている。
とはいえ、大人の自分にとってもこたえる。体力も気力も、過去に消費される。

当たり前ながら、魔法なんてないんだな、と再確認する。
かつての私は、治った暁には、一度も絶望したことのない人と同じレーンに立てるのだと、期待していた。現実はそうではなく、私は私の獣道を行くしかなさそう。

そして、昔読んだ、オスカー・ワイルドの『獄中記』を思い出す。
「銀行家になりたい人は、銀行家になる。弁護士になりたい人は、弁護士になる。自分以外の何ものかになりたい人は、それになって終わる。一方、自分自身になりたい人は、どこに行くかわからない。どこに流れ着くか、自身でも知らないのだ。」

時々は、過去の自分がこうやって、手を差し伸べてくれることもある。


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