ふたりの愛さえも夢の実現のための「準備」だった

★LA・LA LANDのネタバレを思いっきりしています。見ていない方はご注意ください。



最近、「LA・LA LAND」を3回見たとか、5回見たとかいう人によく出くわす。
アカデミー賞6部門受賞、ゴールデングローブ賞制覇というこのとんでもない作品は、日本でも日々さまざまな論評が飛び交っている。
私も2回見たが、キャッチーさ、楽曲の素晴らしさ、
色や演出による伏線、そういった各要素が組み合わさった名作だと思っている。おそらくあと2回は見に行くだろう。

何はともあれ、二人の夢の実現=別れという構図が切ない。
(あまりに切なくて、1回目のエンドロールが終わったあと「もっと頑張れなかったのかよ」「むかつく!」と30分くらい言っていた記憶がある…。)
しかし、2回見た後に思うのは、
この二人の出会いはそれ自体が「夢の実現の準備」だったということだ。

someone in the crowd will take you
Finally off the ground, with only someone ready to be found
群衆の誰かが、君を連れて行くよ
見つけられる準備ができている人だけが、最後には
(『Someone in the cloud』)

女優を目指すミアは、自分の才能を「群衆の誰か」に見つけてもらうために、日々オーディションを受けている。
偏屈なピアニストのセブも、自分の愛するジャズの素晴らしさを「群衆の誰か」に認めさせるために、ピアノを弾いている。

そんな夢追い人の二人は、まず互いを「見つけた」からこそ、
大いなる「群衆の誰か」に見つけてもらうことができたのではないだろうか。
ミアはセブに勧められて一人芝居をやり、それをきっかけに女優の道を踏み出した。
そしてセブは、ミアがいたからこそキースの誘いを受けて売れるバンドの一員となり、おそらくそれを元手にして念願の店を持った。
この出会いがなければ、二人の夢が実現することはなかったという意味で、
「someone in the crowd will take you」は二重の意味を持っているのである。
そう考えると、その関係の帰結が別れだというのは、納得がいく。

しかし、それでもだ。
やっぱり「愛も夢も」とはいかないものなのだろうか。
ミアは子どもがいて、夫とも仲が良さそうではあったが、
夏のシーンでセブとデートしている時ほどの目の輝きはなく、
まるで喪服のような黒いドレスを着ていた。
そして、カメラワークや流れ的にも、あの「あったかもしれない未来」の描写はミアが想像しているように見える。
セブの方も、あれほどこだわっていた店の名前をミアが提案した「SEB'S」としたうえ、彼女がデザインしたロゴまで掲げている。
それほどまでに互いを想っているのにだ。
さすが「セッション」の監督、厳しい。

…なんて思ってしまう私は、まだまだ自分のことを不死鳥だと思っている
非現実的なロマンティストか、あるいは覚悟の足りない腰抜けということなのだろうか。








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