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別に母親になりたいとかない

4月5日に目黒シネマでダンサーインザダークを観た。

それからというものほとんど毎日のようにダンサーインザダークのことを考えてしまい、これは一度文章に起こさないとどうしようもないなと思い、今これを書いている。ネタバレしまくってるので、もし観る予定がある人は観てから読んでみてね!


物語の簡単なあらすじはこうだ。

チェコから移民としてアメリカにやってきたセルマは、シングルマザーとして息子のジーンを育てながら工場で働いている。ある日セルマは隣人のビルに自分が遺伝性の目の病を患っており、年内には失明してしまうことを話す。この時、セルマと同様に刻一刻と視力を失いつつあるジーンの手術費用を貯めていることも打ち明ける。
ビルは妻の浪費による借金地獄に苦しめられており、セルマが留守にしている間にあろうことかジーンの手術費用を盗み出す。それに気付いたセルマが返してもらうおうとビルを訪ねるが、錯乱するビルと揉み合う内にビルを撃ち殺してしまい、裁判で死刑判決を下される。

このあらすじの後のあたりから上映が終わるまで私はずっと泣き通しだった。劇場を出てからもしばらく泣いていた。

この世は何をするにもお金が必要で、そこに感情が乗っかり、思いが強ければ強いほど人間は正気を保てない。正気を保てていない人間たちの愚かさが、やるせなさが、美しさでもあると感じさせられるような描写の数々が土砂降りの雨みたいに降ってきてびしょ濡れになってしまった。


セルマは、周囲の人間たちに愛されている。その中でも特に親しくしていた友人のキャシーが、ジーンの目の手術費用を勝手に弁護士費用に立て替えてしまう。セルマが死刑台に上がるのを何とか阻止しようという痛切な思いから起こした行動だったが、その事実を知ったセルマは激昂する。キャシーは「ジーンには母親が必要よ」と説得するが、「違う!あの子に必要なのは母親じゃない!目よ!」と聞く耳を持たないセルマ。

どちらの気持ちもわかりすぎる口論だった。まるで自分のことみたいに、見ていて胸が潰れそうなほど酷く傷ついた。

セルマが、失明する病気が遺伝性のものである、と知りながら自らの手によって息子を存在させたというエゴイズムと向き合い続けてきた末に出した答えが、息子に目の手術を受けさせることだった。そしてそれは、いずれ目が見えなくなってしまう彼女自身の生きる希望でもあったのだ。

子どもを育てるのは本当に大変で、どれだけ覚悟していても覚悟以上のことが毎日のように起こる。でもその大変さを補っても余りあるほど、子どもというのは存在そのものが希望だ。自分の行く道の道標になってくれるそれに、ご飯を食べさせたり、風呂に入れたり、服を着させたりして毎日世話を焼く。

息子の目が見えなくなることは、セルマにとっては希望を失うことに等しい。もしそうなれば、セルマの行く道は途端に真っ暗闇へと変わり、今まで自分が何のためにどうやってここまで歩いてきたのかも、これから先どこを目指して歩いたらいいのかもわからなくなってしまう。それが今の彼女にとっては、死ぬことよりも遥かに恐ろしい。

ところがキャシーは、死の淵に立った親友のセルマを、セルマが最も恐れている方法で、救おうとする。

もちろん、ほとんど見えない目で夜勤までして息子の手術費用をセルマが必死に稼いでいたことを近くで見ていたキャシーは知っているから、その努力を無下にするようなことを自分がしていいのだろうかと少なからず葛藤したはずだ。しかし、やはり手段など選んでいられない。どんなに汚い手を使ってでも死刑なんかにさせない。それは母親を亡くすジーンを不憫に思う気持ちからでもあり、同時に自分自身のためでもある。だってキャシーは、友人としてセルマのことを愛しているんだもの。

でも、と思う。例えば皆さんは、災害が起きた時に募金することがあると思うけど、純粋に助けたい、という気持ちだけで募金していますか。本当にそうですか?

私は、テレビやSNSで目に飛び込んでくる惨状に胸を痛め、何かしなくてはとほとんど衝動的に募金した後で、もしかしたら自分は「あの時何もできなかった」という罪悪感に押し潰されたくなかっただけなのかもしれないと思ったりする。でも絶対何もしないよりはいいはずだ、きっとそうだと自分に言い聞かせて自分を納得させる。

もしかしたらキャシーにも、そういう気持ちがあったのかもしれない。

弁護士の雇用を断固として拒否するセルマは、キャシーの目にはもはや死刑になりたい人かのように映っただろう。こうなったらもうわかり合えはしない。

結局キャシーは怒って出て行ってしまうのだが、セルマだって本当は同じ気持ちのはずだ。出来ることなら、自らの命をかなぐり捨ててでも守り抜きたいと思うほど大切な大切な息子の成長を、母親としてずっとそばで見守りたかったに決まっている。

それでもセルマは、まるで傷跡からとめどなく流れる血を必死で押さえるかのように、悲痛さを滲ませた声で訴えていた。ジーンに必要なのは母親の私じゃない。目なんだ。あんな風に言われたら、言葉がない。想像を絶するほどそれについて考え尽くして来た母親の表情だった。彼女が持つ答えは一つしかないのだと、強烈な確信を伴って思い知らされる。そこにはどんなに彼女と親しい人であったとしても余計な口を挟む隙などない。「まだ見るべきものがある?もう見るべきものは何もない。光も闇も見た。」と歌ったのは、そういうことだ。彼女は、もう見たのだ。

セルマもキャシーも、互いを愛していて、ジーンを大切に思っているのは一緒のはずなのに、自分の気持ちも大切で、守りたいものと失いたくないものがある。全部がぐちゃぐちゃになって、最後には、取り返しがつかなくなるほど傷つけてしまう。セルマは死んでしまうというのに。いや、死んでしまうからこそだ。

人のためを思って何かをするというのは、どうしてこんなにも難しいんだろう。

その途方もなさを思って、もう自分でもわけがわからなくなるほど泣いた。

セルマを演じるビョークのあどけない容姿も相まって、空想に耽って歌い出す彼女はとても人の親とは思えないほど幼く見える。しかし、物語が始まってから最後まで、ちゃんと母親として生きて、母親として死んでいく。そこだけは絶対的に変わらない。私はどうしたってそれにカタルシスを感じずにはいられなかった。ということは私も、自分の幼稚さと、幼稚ではいられない母親という役割の間で揺れ動きながら生きているということなのだろうか。

全体を通してその考えが浮かんだり消えたりしたが、特にそれを炙り出されたシーンがあった。

セルマに思いを寄せているジェフが拘置所での面会で「なぜ失明する病気が遺伝すると知りながら、君は息子を産んだんだ?」と彼女に尋ねる。周囲の誰もが疑問に思っていながら口を噤んでいたであろうことをとうとう初めて訊かれたセルマが、なんと答えるのだろうかと固唾を呑んで見ていると、彼女は「赤ちゃんをこの手で抱きたかったの」と少女のような顔で答えた。そうだよね、抱きたかったんだよね。赤ちゃんって可愛いもんね。抱っこしたいよね…。と思いながら嗚咽が漏れるほど泣いてしまった。正直すぎる。まるで子どもじゃないか。ごっこ遊びじゃないんだぞ、とたしなめることすら躊躇われるほど、あまりにも純粋で真っ直ぐな眼差しだった。

話が逸れるが、2年程前に私に求婚してきた男性がいて、どういう話の流れだったか忘れたが彼に「お母さんになりたかったから子どもを産んだんでしょ?」と半ば断定的に尋ねられたことがある。シングルマザーになってからというもの、世の男性はこうも"お母さん"に弱いのか、と驚かされることがしばしばあった。男性に限らず、幾つになっても母親に愛されたいという気持ちは誰しもが持っているものだ。27歳子持ちの私にも全然そういう気持ちはある。だからそれ自体が悪いこととは思わないけれど、彼の聞き方からは私に対するそうであって欲しいという彼自身の願望が透けて見え、心底辟易とした。

その時は「うんまあ」とか何とか適当に受け流した気がするが、なぜかその質問だけは印象に残っており、事あるごとに思い出しては私ってお母さんになりたかったのかな、とぼんやり考えを巡らせてみたりしたのだが、結局答えは出ないままだった。でも今の私は、それにはっきりとこう答えることが出来る。

私は、母親になりたいと思ったことはない。ただの一度もない。

それは母親になるのが嫌だとかそういうことではなくて、そもそも私は母親になれるような人間ではないし、能力もないとずっと思っているのだ。今日からハーバード大学を目指します!と言って逆立ちして猛勉強しても無理なのと同じことだ。

そんな母親になる心の準備もへったくれもないような状態だったにも関わらず、私は一人で子を産み育てることを決意した。なぜか?

自分の子どもに会ってみたかったからだ。

ね、馬鹿でしょ?

そうしたかったからしただけ、でとんでもないことになるのをわかっているのに、もうずっとそんな調子で生きている。デカすぎる風呂敷を広げまくり、畳むのに追われまくる人生だ。自分で広げたくせに、怖いよ、怖いよ、もう無理だよ、出来ないよとイヤイヤ期の幼児みたいなことを思いながら、全然平気な振りをして仕事に行き育児をする毎日。

自分の滑稽さにほとほと呆れながらも馬鹿をやり続けるのは、風呂敷がデカかったからこそ取りこぼさずに掬い上げることが出来た幸せがあるからだろう。その最たるものが、私の息子だ。

天使と見紛えるほど可愛い息子を大人たちが取り囲み、彼らが思わずゆるませた頬の中に宿る優しさの煌めきを見つけては、ああ、産んでよかった。と心の底から思う。その光景のあまりの美しさに、まさか自分の人生にこんなに幸せな瞬間が訪れるなんて、と信じられない気持ちになる。

背負っている責任の重さに耐えかね嫌だ嫌だと身を捩っても、子を産むという選択をした以上、私は母親という役割から逃げることが出来ない。育てる義務がある。でも私にとっては、逃げられないということこそが、幸福そのものだったのだ。日々のあらゆる場面で、あらゆるバリエーションを以て、ある時は唐突に強烈に、またある時は点と点が線で繋がるように、それを思い知らされる。そういう、息子が居てくれなければ絶対に感じ得なかったであろう幸福な瞬間に立ち会うたびに「私のことをお母さんにしてくれてありがとう」という感謝の気持ちではち切れそうなほど胸がいっぱいになる。お母さんは、君のおかげで本当に幸せなんだ。だから君が大人になるまではどうかここに居させてね。逃げられないのに居させて欲しいって、わけわかんないんだけどさ。

きっと私は、これからも自分がちゃんと母親をやれているのかどうか全然わからないまま母親をやっていく。どんなにダメでもやっていくしかない。でももう、そんな風に思えているだけ十分ってことにしてもらえないだろうか。なんとかお願いします。もし私と同じようなことを思ってる人がいたらこっちにおいで。私がそれでも良いよって言ってあげるから。

友人との間でダンサーインザダークが話題に上ると、皆口を揃えて「本当に救いがないから元気な時に観た方がいい」というようなことを言っていたけれど、人生ってそんなに救いがあることばかりじゃないでしょう。

それを知ってる人は、きっと観てみるといいんじゃないかな〜と思いますよ。

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