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自己を融かし役に生きる―『メソード演技』 感想

  結論的に言うと、私にはこの本は合わなかった。

   とくに感覚を使うという点に重きのあるこのメソッドは、自分の書こうとしている感覚をテーマとした一つの課題(おうし座サビアンというショートショート)に有用なのではないかと考えたことが、古典といえる本作を紐解くことにつながった。

   もともとこの本の理論には賛否がある。心酔した役者は精神的に不安定になったり、命を落としてしまう人もいて、危険な部分があるという触れ込みもあった。もちろん、重要視されている方を敵に回そうとかそういうのは全くない。

   このメソッドは、俳優の、つまり演じる側の人を教育する、教科書であり、ワークショップの実践とヒント、その目的はとりわけ役をリアルに(脚本に描かれた役が本当にそこに生きているように)演じることである。

   そのために役者が自己の身体感覚や感情の記憶を役に注ぎ込み、役にいかに真実味を持たせるかという、訓練のやり方などが具体的に書かれている。

   この本はスタニフラフスキーの確立した演劇メソッドをアメリカのアクターズスクールでリー・ストラバーグが教えていたものを著者が教科書として書き表したものである。

   演者ではない自分にも、役に生きるということは表現活動をするには有用と思って読んだので、どうして演技を含めた表現は楽しいのだろうと最初に考えさせられたし、演じる瞬間だけでなく、日常のあらゆるところで創作を意識して過ごすというところは、創作へのモチベーションに必要かと思われた。だが、逆に考えるとずっと役を意識し続けるということは自分を役に拘束し続けることであって、辛い感情を記憶から引き出して作り上げたりすることは、気持ちを不安定にさせることに必然的に繋がってしまうと感じずにはいられなかった。

   一つのことを考え続けることだけでもかなり辛いのに、自発的に考えたものでなく、与えられた役について四六時中考えていく作業は日常の自己を解放するというよりも、漸次、自己の魂を時間をかけて解体し、役に融かし込むことに繋がるように感じた。良い意味でも悪い意味でも。

    役を演じる自己は自己であって自己ではない。境界が溶けたとき、良く出れば役はフィクションではなく現実に本当に存在しているかのように命を吹き込まれるが、悪く出れば本当の自己は崩壊し、偽物をさまよい、ひいては、あちら側へ引っ張られてしまう可能性がある。

   演劇は俳優の演技によって観客を引き込み、脚本や演出の妙を伝える。俳優の演技に作品の成功が懸かっていることは、いうまでもない。

   だが、俳優の希望としてでなく、強要するように、作品のために俳優の自己を失わせてまで作った作品が、人々の目を引き付け、成功として扱われたとしても、果たして本当に素晴らしい作品だと言えるのかというと疑問符である。

    役者は操り人形ではなく、血の通った人間で、歩んできた道があるからこそ、深みのある創作に寄与する可能性を秘めているが、役に自己を投射しすぎてしまうと、自己を見失う危険性が潜んでいる。役から自己が逃げられない状況に追い詰められたとき、あるいはふいに自己を役から切り離して考えた時、役と同一のものして自己が認識されているのを意識したとき、自己からあまりにかけ離れた、もしくは自己の傷を強調したり、世間的に受け入れがたい役だった場合、役者自身は深く傷つくことになるのではないか。

   それだけ、人間の感情は繊細なバランスで成り立っているのだと思う。

   作品を表現するために役のリアルをどこまで追求するかというところが肝であり、役者の背景を無視して脚本家や演出家が役のリアルというものを完璧主義に求めすぎることは危険がある。

   この方法論の全てとは言わないが、目的と一部の訓練に危険な箇所があると思われる。

   「真の芸術家は、自分の芸術を完成させようと、たえず努める」というのは尊い考え方だと思うし、このメソッドを足がかりとして、たくさんの演劇や創作に係る偉大な方々が諸々意見を持ちながらも、通過し、学んできたことも周知の事実だ。

   この本を正確に読みとれたかは分からないが、私見として、自己を融かし込んでまで他者の作品の一部になりきることを想像したとき、あるいは自分のトラウマのような体験に意識が行ってしまいやすくなって、それを意識し続けたとき、そこにあったのは猛烈な苦しみだった。

   自己を役に融かし、当てはめるように役に生きるのではなく、自己と適正な距離を保ちながら他己理解から始まる自己理解として、役を生きるといったような考え方の方が個人的には合っているように感じただけ。



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