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立ち呑み屋は、外に向けて開かれた小さな窓。

立ち飲み屋が好きだ。
ほぼ毎日通っている。

そう言うと、「知り合いと一緒にワイワイ呑むのが好きなんだね」と言われたりするので、私は驚く。えっ、立ち呑みって、そういうイメージ?

🍶

今野ぽたさんのnoteを読んだ。

立ち飲み屋が苦手だった理由を、ぽたさんは「立ち飲み屋=常連の人と店員を交えながらワイワイコミュニケーションする場」と以前は考えていたからだ、と語る。

そうか、やっぱり一般的にはそういうイメージなのかな。うん、確かに、コミュニケーションを強要される雰囲気の店も無いこともない……が、私はそういう立ち呑み屋にはいかない。

私が立ち飲み屋を愛している理由は、そこが独りで呑める場所だからだ。「独りで呑むのなら自宅で呑めばいい」と思われるかもしれないが、それじゃあダメなんだ。

特に利害関係のない人たちが「ゆるっと」存在している。会話が漏れ聞こえてきたりするけれど、別に話にのらなくてもいい。誰かのグラスの酒が減ったからといって気を遣う必要もない。それでいて、ちょっと話したい気分だったら会話してもいい。そういう自由さ。

それをぽたさんは、こんなふうに喩えている。

非常に表現しがたいが、立ち飲み屋には「可変性の非常に伸縮性のある膜」が張られていると思う。なんとなく、中学や高校で習った浸透圧や細胞壁や細胞膜の話を思い出してもらうといい。立ち飲み屋は非常にシームレスで、プライベートな領域に踏み込まれると思っていた私は面食らった。

そうそう、そういう感じ。適当に放っといてくれるし、適当に構ってくれる。そういうちょうど良い距離感。

私が毎日のように立ち寄るのは、鎌倉にある「ヒグラシ文庫」という立ち飲み屋なのだけれど、ここの先代の店主・中原蒼二は、立ち飲み屋を「窓」に喩えていた。

窓は、とても小さい。でも、外の世界に向いて開いている。

これは2011年の私のブログ。ちょっと恥ずかしい。

震災の後、「絆」という言葉があちこちで謳われていたけれど、「絆」じゃなんだか青春臭くて恥ずかしいと思ってしまう。そして、なんか重い。「絆」まではいかない、ゆるい繋がり。財布に千円札が一枚入っていれば、一杯呑んで旨い肴にありつける。なんとなく知った顔ができて、世界には私独りじゃなないんだな、と思わせてくれる。

そういう、小さな窓。

そんな立ち飲み屋という窓から覗く世界が、私は好きなんだ。

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