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Journal de confinement 私のコロナ自宅待機日記4

コロナ自宅待機10日目。

死について考える。死とは、悲しいことなのだろうか。

いや、もちろん悲しいことなのは知っている(大切に思っていた人が死んでしまうのが悲しいことなのは知っている)のだけれども、

死というものが、そのまま「悲しい」ということに結びつけられるのだろうか、と疑問に思った。

退屈というのものが、良くないもの、ネガティブなものだ、と社会一般の共通認識としてあるけれども、実はそうではない、ということに似ている。

(と、ここまで書いてnoteでこのことを書くのは初めてだと気づく。私はベルギーにある国立演劇学校に通っているのだけれども、私の学校、国立の(一応)エリート学校の癖に結構変わっていて「演劇の戯曲ほど読むのが難しく面倒くさいものはない!」と生徒に言ったり「退屈を学びなさい、退屈を。」と言ったり。退屈っていうのは、果たして本当に悪いものなのか?という疑問を投げかけてきたのがこの学校。いや、そりゃ悪いに決まっているでしょう、と当初は思っていた(実に「日本人的」な私で、予定が詰まっていること、やることが沢山あることが大好きだった)、そんな私も最終的には退屈が人間の成長においていかに大事かを知ることとなった。)


もう一度。

人が死ぬことは、悲しいことなのだろうか。

まったく詳しくは知らないけれども、きっとこの地球に存在する文明で、死が悲しい以外の、何かもっと晴れ晴れしたものとして扱われているものがあるはずだ、と思う。予想でしかないが、恐らく存在する。

このことは、「死はひとつの旅立ちですから」というキレイな雰囲気を纏う言葉でも表現できてしまうかもしれないが、

個人的にはもう少し違う言い方がしたい。私たちは人が死ぬことに、何かもっと別の解釈や感情が入り込む場を与えてもいいのではないか。


死刑制度について、深く考えたことは一度もないのでまったくもって考えが甘いかもしれないが、日本で死刑が最高刑となっているのは、死がある種の悪のイメージを持っているからだろう、と思う。悪といわずとも、何か黒い、悲しい、グレーゾーン、そういった雰囲気を帯びたものだからだろう。生は、喜ばしいもの。だから、酷いことをしたやつからはその生を奪い、黒々とした死を与えよう、と。

勿論、死刑制度には他にも問題が山ほどあるのは承知の上だ(人が人の命を奪うのは、いかなる場合でも許されないのではないか、とか)。でも、生きることが死ぬことよりもよっぽど辛い場合だってあるのではないか。死んだこともないのでよく分からないけれど、それが理由で(理由のひとつで)自殺する人が多いのは事実だ。世界中で自殺者の数は年間80万人を超えるという。

人が、人の死に対して持っているイメージとは何だろう。生に対して持っているイメージとは。

それは、内実を反映しているのだろうか?それとも、内実よりも、私たちの持っているイメージの方が真実なのだろうか?(大事なのだろうか?)


中学校の頃に、地元の駅の交番の前を通りかかったときに、「昨日の交通事故数・交通事故での死者数」がボードに書いてあるのに気付いた。市町村のうちどの規模が母数に設定されていたか覚えていないけれども、その数の多さに驚いたのは今でも覚えている。そして、次の日になると、ボートの上の数字はは別のものになっていた。毎日ちゃんと変わっている数字なのだ、と思った。と、同時に昨日の事故で亡くなった人の家族のことを思った。急のことだったろうな、と思った。泣いているのだろう、と思った。しかし、その数の多さに、ひとりひとりの様子を思い浮かべることなど出来もしなかった。

人って死ぬんだな、と本当に分かったのはいつのことだろうか。

1月に日本にいる祖母が亡くなったが、私はベルギーから日本には戻らなかった。お葬式にはLINE電話で参加した。私は彼女の棺が焼かれるその瞬間をこの目で見ていない。

まだおばあちゃんは生きていて病院にいるよ、また今度会いに行こうね、そうだねいつかね、とか何とか言って、二度と会いに行かなければ、死んでいないのと同じことだろうか。



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