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捨てることのできないハンデをファッショナブルということにしてくれよ

・GUCCIによって発表された拘束衣をモチーフとしたコレクションに対して、モデルが抗議として「メンタルヘルスはファッションではない」と手に書きショー・ランウェイを歩いたという。


・メンタルヘルスはファッションではないのか。

・今回の場合、「拘束衣」である。拘束衣ってメンタルヘルスに関わるモチーフの中でもかなりえげつない。もちろん、この感覚にピンとこない人も多いとは思う。
私が、血や刃物の表現は好んでも、錠剤の表現はしなかったのと同じ。フィクションの薬ならまあカワイイけど、リアルになると来るものがある。前、薬が効いてしまったことによって、あらゆる現象が所詮は中枢神経の発火であるに過ぎないと証明されてしまって苦しんでいる、と書いた方がいたっけ。私にとっても、薬は怖いんだよ…。薬の作用でどのようにでもなる脳や心を軸に、もはや何も信じることができなくなっていく。私はどこにいるのか?…
ともかく、要するに、個人によってラインがある。

メンタルヘルスはファッションではない、とは思わない。
拘束衣は、微妙、とは思う。自ら着るものではなく着せられるもの(他者に強要する矯正)であるが故の微妙さ。拘束衣はファッションではない、という風に言われるとそれはそれでわからないけど。
そもそも、「○○はファッションではない」って何?ファッションをバカにしすぎでは…?

ファッションの本懐は着脱可能であることで、それは必ずしも「安直」とイコールではない。
それこそ私にとって、「ファッションメンヘラ」が忌まわしいものであると同時に救いだったように(過去記事:「ファッションメンヘラ」という言葉について思うこと)、ファッションにすることで癒えていくものも絶対にあるとは思う。
ただ、それはそれとして、拘束衣は好きではないが。


・しかし。
数年前の「ファッションメンヘラ叩き」のように、ここからすべて「メンタルヘルスはファッションではない」ということになってしまったら、それは明らかに人間の後退だ。これは当事者としての意見。

私はよく、こう願う。
捨てることのできないハンデをファッショナブルということにしてくれよ。
そうでないのなら、治ることのないハンデを持つ私は、死ぬまで"まともに生まれられた人たち"の模倣をさせられなければならないのか?
そこまでして、"劣等種"の"まがいもの"としてしか生きられないのか。

ハンデがあるからできたこともあったはずだと信じている。それによって大切な人たちに喜んでもらえたことが確かにあったとも。
それでも、ハンデを肯定的に捉えることは、「ハンデを持っている人に対する侮辱」なのか。
私自身のハンデなのに。

何のための配慮なんだろう。
私が「こう生まれて良かった」と感じることは、永遠に許されないのか?

捨てることのできないハンデをファッショナブルということにしてくれよ。
私は死ぬまで治らない。


・アイドルのハンデ所以(と思われる)の挙動、かわいいと思った女の子たちが真似しているんだって。それは本人が(言ってないけど)傷付いてるかもしれないからやめた方がいいんだって。自分にはハンデを持った身内がいるからわかるんだって。

ハンデを持った本人だからわかる。
私は、ハンデ所以の挙動もぜひみなさんにどんどん真似して頂きたい。バカにして真似してんのか憧れて真似してんのかぐらいわかるよ。イケてるってことになりたい。
てか、イケてるって捉えられ方がこの世にないほうが逆に辛い。
よく誤解してる人を見るけど、「キモいけどお許し下さる」ことは、"多様性対策"には、断じてなりませんよ。
「多様性を"認める"」という、まかり通った言葉遣いの、この厚かましさ。

「それでこそ美しい」
その価値観が"不謹慎"ではなくなったとき、初めて私たちはフェアになる。

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これまで完璧な猫画像になることを目指して人格を捨ててきましたが、生きた結果死ぬなら薔薇の寿命ですので、考えごとをむしろ書きます、これからは。元々はファンクラブ・ミルナギャルサーでございました。けっこう無料で読める記事多いんですが、定期購読いただけたらその応援の気持ちにウルトラスーパーハッピー♪になります

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